私の大学時代(2)

都立大学の入学式は全共闘に「粉砕」された。3年浪人して入学はしたものの、同級生とは話が合わなかった私はどうも場違いなところに入ってしまったようだ、と思いつつ入学式に出席した。学長の祝辞を聞いて事務連絡があるだけの式だった。高校のように一人…

私の大学時代(1)

私は昭和45年(1970)東京都立大学理学部生物学科に入学した。都立王子工業高校電子科を卒業して3年浪人した後である。学生番号は54013で始めの5は「昭和45年入学」次の4は「理学部」そして13はおそらく理学部内のアイウエオ順の番号であ…

私のバイト時代 (19)

私は相手が若い女ということだけでも強く惹かれていたが、その上私の事を悪く思っていないらしい、ということで逆上した。そしてこんな状態ではとてもつき合う事などできない、と考えて断りの手紙を書いた。 自分はまだ学生で定収入もなくとても結婚できる身…

私のバイト時代 (18) 

生涯たった一度だけ見合いをしたことがある。それはオヤジさんの紹介だった。「君は良く工夫している」とオヤジさんは私をかっているようだった。仕事をするにも、最後の結果を考えて段取りを考えてている、というのである。 教えられた通りにやっていても充…

私のバイト時代 (17) 

原宿のマンションの補修工事の時はわびしい思いをした。12月のクリスマスの時だった。外壁の工事で家の中はいつもどおり人が住んでいた。冬の夕暮れで分厚い黒い雲が空を覆っていた。風は無かったが気温が低かった。 私は屋上から椅子の形をした一人用のゴ…

私のバイト時代 (16) 

このバイトで死にそうになったことが2度ある。一つは下赤塚のボーリング場だった。高さ10mほどの足場で作業していた。ネタをかき混ぜるとき使うトルエンが目に入った。あたりが瞬時に暗くなり激痛が走った。 何が起こったか分からなかった。ともかくそこ…

私のバイト時代 (15) 

このバイトを結局4年近くやった。それだけ長く続いたのは、全く一人で全行程を出来たからだと思う。朝8時に現場に入って、工事中の屋内で着替えて黙々と作業する。10時になったら休憩20分、12時まで仕事をして、昼休み1時間。午後の1時作業を再開…

私のバイト時代 (14)

戦後は進駐軍のベースキャンプでペンキを塗ることから始めたらしい。「アメちゃんは白いペンキが好きで必ず年に一回は塗り替える」とか「クロちゃんはすごい。ションベンなんか台所の流しで平気でする」とか当時の経験談を語っていた。クロちゃんとは黒人兵…

私のバイト時代 (13)

ルーマニアではゴキブリのことをグンダークというらしい。いかにも進駐軍相手に覚えたといった感じの英語でルーマニアの言葉はグンダークだけである。「ゴキブリはもう出ない。6ヶ月は保証する」という意味であろう片足の説得は相手に有無を言わさない迫力…

私のバイト時代 (12)

経営者は50代の小男で片足がなかった。太平洋戦争でなくしたと言っていた。杖をついて体を揺らして歩いた。仕事先にはこの「片足」と同じ都立大学の男子学生と私の3人で行った。 車はライトバンで後ろに薬品や散布器やその他の器具を積み込み、前に我々が…

私のバイト時代 (11)

集合時間は冬の早い落日がすぎた夕方であたりは暗くなっていた。場所は 竹芝桟橋の近くの公園だったと思う。そこにマイクロバスが着いた。運転手が降りてきて、競輪の仕事に行く人は集まってくれ、と言った。公園の中にばらばらにいた男たちが黙ってマイクロ…

私のバイト時代 (10)

都の清掃局のバイトは年末年始の臨時要員だったので、2週間ほどで終わった。大学の掲示板で探した次のバイトは引っ越しの補助だった。これは運転手と助手2名の3人がチームを組んでやった。 まず運送会社に行き、その日の現場まで車で行く。現場に着くと、…

私のバイト時代 (9)

工場の敷地は広大で全部測量するのに2週間ほどかかった。化学工場は作業員も少なくガランとした印象だった。測量の作業は一般の道路や民家と比べて格段に楽だった。ただ危険な個所が多く、ヘルメットの着用が義務づけられていた。油断していると、すぐわき…

私のバイト時代 (8)  

そして最後に、ポリッシャーを担当した。これが一番楽だった。作業の先頭だから、仕事のペースは自分で決めることができる。はじめは扱いにくかったポリッシャーもしばらくすると片手で操作できるようになった。電源コードをのばして短時間ならリモコンで遠…

私のバイト時代 (7) 

土日の床洗いはウィークディと違ってチームを組んで仕事をした。床洗いは仕事の段取りが決まっている。週に1度、床を石鹸水で洗いワックスをかけて仕上げるのが目的である。 この目的に向けて仕事の各段階が順を追って構成されていた。まず第一に出来るだけ…

私のバイト時代 (6) 

掃除のバイトでは世の中を裏から見ることができた。 月-金の掃き掃除では、退社後の人のいない事務所の中を掃いて回る。机の上を見ただけで、そこを使っている人の様子が分かる。几帳面に片づいた机、書類やその他のものが雑多に積み上げられた机、乱雑な机…

私のバイト時代 (5) 

上野駅キヨスクの売り子は半日やっただけだった。1m四方ほどの大きさの台車に新聞、週刊誌から、コーヒー、ビール、つまみ類など旅行の時に必要な様々なものが詰め込まれている。それをプラットフォームの上を押しながら、客の注文に応えて売るのであった…

私のバイト時代 (4)

高校は住まいのすぐ裏の歩いて5分とかからない工業高校電子科であった。ひと月ほどして学校の様子が分かるとさっそくバイトをさがした。 まず初めに応募したのは石鹸工場の倉庫係だった。近くの工場の塀に応募の張り紙があった。土曜日の午後だけ1度行って…

私のバイト時代 (3) 

この経験から、ラーメン屋の味を知るには、ラーメン、チャーハン、餃子の3点セットを頼めば十分なことがわかった。これ以降今に至るまで、ラーメン屋に行くとこの3点セットを頼み、教員の悲しき性で、汁、麺、具の3項目にわたって5点法で評定を下す、と…

私のバイト時代 (2) 

大番はごく普通の町場のラーメン屋だった。開店は11時、閉店は10時ころで、11時に店を開くためには朝10時頃から準備した。店長は30代の男で奥さんと2人でやっていた。ふたりとも中国人だった。 私の仕事は店内を掃除して、客があればコップに水を…

私のバイト時代 (1) 

浪人時代の次は大学時代に続くことを考えていたが、どうも気分が乗らない。そのうち教員になるまでにアルバイトをかなりやっていたのでそのことが思い浮かんだ。 家族に仕事をいいつかってそのお駄賃をもらうのを含めなければ、私が初めて仕事をして報酬を受…

私の住宅事情 (6) 

娘の産まれた年の夏に引っ越しをした。毎回出していた公団の抽選が当たったのである。倍率は2000倍ほどだった。宝くじを始め様々な抽選ではいつも外れていたから、当選する人がどこかにいるはずだとわかっていても自分とは無関係だと思っていた。住宅公…

私の住宅事情 (5) 

小笠原には3年いた。内地に戻ってくるときに、高校の卒業生と結婚する。私が赴任したとき彼女はすでに卒業していたので、直接教えたことはない。結婚式はしたくない、と妻が言うので届けを役所に出しただけの結婚だった。島にいる妻関係の親戚を集めて妻の…

私の住宅事情 (4) 

大学を卒業した時には27歳になっていた。新採のまともな就職にはつけない。そこで教員になることにした。静岡、神奈川、埼玉と日程が違う関東近辺を受験したが皆落ちた。最後に受けた東京に合格した。東京の問題は範囲が広く、高得点でないと合格しない、…

私の住宅事情 (3) 

高校浪人大学と合わせて12年間東京北区のアパート福寿荘で過ごしたが、この間1年ほど私は家出している。 工業高校を卒業して3年浪人の後入学したのは東京都立大学理学部生物学科であった。受験数学の成績が悪くないので理系を受験しただけで、特に将来展…

私の住宅事情(2)

私が昭和30年代をすごした8畳一間を今風にいうとワンルームということになり、いささか聞こえはいいが、文字通りの一部屋でそこに一家7人の衣食住がすべて詰め込まれていた。寝るときは、父と兄、母と私、姉2人が一つのせんべい布団に並んで寝た。残っ…

私の住宅事情(1)

「半世紀生きた人になっちゃうね」妻が言った。そうなのだ。私は3月3日で50歳になってしまった。まったくだまされたような気がする。気がついたら勝手に向こうから年が寄ってきて、そういうことになってしまったのだ。まあいい、そっちがその気ならこっ…

私の浪人時代Ⅱ(10)

現実的に無駄な11年間と書いたのは、東大を卒業しても、世間でいうような「一流大学を出て大企業に入って裕福な人生を送る」ということとは全く無縁だったからである。 明治生まれの父は千葉県から上京し都の公務員をやめた後、自分で事業を興しそれに失敗…

私の浪人時代Ⅱ(9)

結局願書を出したのは東大理Ⅱだけだった。精神科医への道は入学後の可能性に賭けることにした。基準点は830点前後と予想されていたから、2次試験が受験できるのは確実である。 試験日は3月3日4日で3日は私の31歳の誕生日である。会場は本郷であっ…

私の浪人時代Ⅱ(8)

受験手続きの書類はほとんど予備校のいうとおりにしていればそろったが、調査書だけは出身校へ取りに行った。3浪の時に行ってから10年たっていた。 王子工業高校の校舎は少し改築されていた。事務の窓口で申請書を出した後、職員室に顔を出した。私はすで…