私の教員時代(8)

 さらに1976年の3月の記録を続けることにする。

 22日後楽園に行って姉の友人のSさんと話。その後引っ越し用に神田にある姉の会社から段ボールを受け取る。いったん王子福寿荘に戻り大学に行く。現在奈良で高校教諭をしているY氏と共に都立大学の助手だったKさんの家に行く。私の送別会をしてくれたのだ。シベリウス交響曲2番をKさんはかけてくれた。それから10数年してKさんはガンで亡くなった。この集まりは、生物学科関係者というだけで、研究室が一緒だとかサークルをやっていたとか、そういう関係は一切なかった。私は呼ばれればどこへでも顔を出していた。それからKさんの友人の家に夜遅くなだれ込んだ。昨日同様寒い夜だった。帰宅12時半。

 23日中学時代のアマチュア無線クラブ関係者から電話。小笠原にトランシーバーを持っていかないか、との申し出であった。ただでくれると言うのである。免許だけは持っていたが無線はやめていたので鄭重にお断りした。入学直後に知り合った和光大学の女子学生Fから電話をもらう。彼女はすでに大学を中退し郷里に帰っていた。日記の記載は「笑って話した」とだけある。彼女からはいまだに毎年年賀状をもらう。大学に行く。研究室の助手だったIさんから「私の使った茶碗は使わないで取っておく」と言われた。私が研究室ではけっこう珍重されていたのがこれでわかる。2日ぶりに香川知子に電話する。私は勝手に落ち込んで(口先だけの結婚を断られたので)もう彼女とは終わった、などと思いこもうとしていた。私の思いこみに反して彼女は優しかった。電話で話していると、お互い言葉につまりため息ばかりつく状態になった。

 24日小笠原に持っていくテープをダビングした。PINKFLOYDの”ANIMALS”、松任谷由実の「十四番目の月」などがあったのを憶えている。この日は私の所属している発生学研究室の追い出しコンパだった。12人が参加している。この研究室から卒業するのは2人だったと思う。もう一人は研究者になって裏日本の大学に勤めている。帰りは終電になった。それから酔った勢いで12:20から12:55まで香川知子に電話している。

 25日大学の卒業式だった。7年前に入学したときは全共闘によって式は「粉砕」された。運動に参加していた諸君のなかにはその主義を通して自主退学したものも少なくない。2年卒業の遅れた私の時代には大学は「正常化」されていた。しかし私に卒業式の記憶はまったくない。日記にも卒業式と書いてあるだけである。世話になった人に挨拶した記載があるので、大学に行って卒業証書は受け取ったものと思われる。3日前に訪問したSさんには花をあげ、机の中にあったビール券を研究室のDさんに渡し、目黒校舎の学生室にいた後輩にレコードを譲っている。その後、B類(夜間課程)の友人とK教授の家に行った。K教授は分類学の大家で小笠原の植生を研究していた。香川知子と27日会う約束をする。

 26日大学に行って研究室の机を整理。その後池袋で午後7時半から工業高校時代の同窓生が集まった。私の小笠原行きにかこつけたものである。卒業から9年たっていた。「私の高校時代 外伝」には、高校卒業後会ったのは3人程度と書いたが、日記を読み返して、この時会っていたのを失念していたのがわかる。私の記憶はこのようにいいかげんなものだ。11時頃解散。うち4人はキャバレーに行った。私はAの家に転がり込んだ。

 27日Aの家でごろごろして大学に行った。香自川知子と会うためである。学校で会うと相変わらず彼女はそっけなかった。電話での低い声、言葉もつまりがち、吐息ばかりついている印象と違っていた。その落差が私を混乱させた。彼女はさばさばした口調で「三月は流す」と麻雀の比喩で言った。言外に勝負はまだ続く、との含みがある。以前のように一緒に新宿まで行った。別れ際に、不意に押し黙って私を見た。そうなると私は抗えなかった。別れがたく彼女を家まで送って上がり込み食事をごちそうになっている。世話になった年長の友人が就職して島に赴任するので、そのお別れとお礼といった感じである。彼女にはLPレコードを24枚プレゼントした。引っ越しの前に学生時代のものを誰彼なくあげていた。

 遅く帰宅すると、あちこちから連絡が来ていた。いずれも人と会う用事である。その中に小石川高校定時制からの求人も混じっていた。すでに小笠原高校に赴任することが決まっていたので、迷うことはなかったが、教員の人事というのはこのように予定の立たないものである。私が小笠原高校を断り名簿登載状態にあれば、この小石川高校に採用されていたところである。

 28日福寿荘の部屋を片づけた。私の赴任ドキュメンタリーを撮るというM君(現在和光大学教授)、S氏、友人Aと次々にやってきた。ステレオや8mカメラやカセットデッキなどを譲る。別れの挨拶の電話が3件。香川知子からも電話がある。「行かないで欲しい」と懇願される。昨日の様子とまったく違っていた。そう言われると私もこころ穏やかでなくなるのだった。始めて彼女を送って家までいった13日以降、キスはおろか手さえ触れなかった。受話器を握って立っている私の体の中が熱くなった。

 私は彼女の2面性に翻弄されている、と思っていた。しかし彼女にして見ればそれはそのまま私の2面性であった。たとえ口先だけにせよ「結婚しよう」と言っておいて、それからは手すら握ろうとしない。まめに電話だけはしているが、自分からは会おうと言い出さなかった。そしてそれはそのまま私の人生に対する態度だった。浪人、大学時代にほとんど自分からは人に働きかけなかった。一人で鬱屈していた。そのくせこの3月の記録を見ると、休む間もなく連日連夜かけづり回っている。その落差が激しかった。

 大学を卒業して現在に至るまで、私は仕事上の連絡か冠婚葬祭などのやむを得ない事情以外はほとんど他人に自分から連絡したことがない。そのくせ、他人から連絡があればほとんど断ることなくホイホイと無節操に話に乗った。年賀状がそうだった。自分から出したのは、半ば義務で担任の生徒諸君に出すものだけで、後は自分宛に来たもの全部に律儀に返事を出していた。インターネットを始めても事情は同じである。この3月は高校入学以来12年間の人間関係に一挙に決着をつけようとしていたとさえ思われる。

 彼女との電話が終わってから数人に連絡した。23日に「笑って話した」Fの友人のKと翌日会うことになる。Kは母親を除けば始めて唇を重ねた女性だった。それは始めて出会った夜、新宿ゴールデン街の飲み屋でのことだった。彼女も酔っていたがずいぶん乱暴な出来事である。このKさんとはその後3年ほど、時たま会っていた。Kさんの場合もそれ以降彼女の体に触れたことはない。

 29日引っ越し荷物を竹芝桟橋に運んだ。車はハイエースのバンを借りた。運転は友人のNがやってくれた。6680円だった。王子→竹芝桟橋信濃町→深沢→目黒→環7→王子、とコースの記録がある。大学に寄って、最後の残務整理をした。その後で新宿へ出てKと会った。Kからは詩集をもらった。確か吉増剛造の「頭脳の塔」だと思う。10時40分に別れた。帰宅後、香川知子から電話がある。電話の向こうで彼女はほとんどすすり泣いていた。「あたし、もうだめ・・・いとおしくって・・・」と言ったまましばらく無言になり、「あたしから切る!」と宣言して切れた。この日も何人かと電話で別れの挨拶をしている。

 30日中学時代の友人Sの家に行った後、引っ越し荷物の無くなった部屋を片づけた。この日も5人ばかりに連絡した。小笠原高校の私の前任者とも話した。「大変な所だ」と忠告される。バイトで世話になったオヤジさんは翌日見送りに竹芝桟橋まで来るということだった。香川知子にこちらから電話すると「はい、そうですね」と他人行儀な話しぶりである。そばに母親と弟がいるらしい。「明日また電話してください」と事務的に言って切れた。

 そして出航の日になった。

 2002.10.7

───────────────