私の住宅事情 (4) 

 大学を卒業した時には27歳になっていた。新採のまともな就職にはつけない。そこで教員になることにした。静岡、神奈川、埼玉と日程が違う関東近辺を受験したが皆落ちた。最後に受けた東京に合格した。東京の問題は範囲が広く、高得点でないと合格しない、と言われていた。選択肢で答える一般教養と記述式の専門教養に分かれている。一般教養は出題傾向が決まっていた。問題は記述式の専門の方である。
 
 私はヤマをかけることにした。出題者は指導主事などの年輩者であろう。そこで古本屋に行き昔の生物の問題集を購入し(たしか250円だった)それ1冊だけやった。専門は5題出題であったが、そのうち3題はまったくその問題集と同じであった。15倍くらいの倍率をなんとか突破した。
 
 あらかじめ勤務先の希望を書くことになっていた。成績順に希望がかなうのである。私は最僻地の島嶼を第一希望にした。そうしておけば採用の確率が高いからで、僻地教育にこの身を捧げようなどとは、これっぽっちも思ていなかった。ともかくもぐりこめばなんとかなる、の一心である。
 
 12月に内定の連絡があった。福寿荘に直接校長から電話がきた。そして冬休みに教頭の自宅で打ち合わせがもたれた。当時も今も、東京から世界中で一番遠い(と言われている)小笠原である。住まいはプレハブの宿舎で一緒に勤務することになる英語の先生と2人で使ってくれ、ということだった。そのM先生は私より10歳ほど年長である。単身赴任して大丈夫のようだったら、島に家族を呼び寄せるということであった。
 
 赴任したのは小笠原諸島返還後7年目である。その当時は竹芝桟橋から船中2泊して38時間かかった。宿舎は公務員住宅で小笠原支庁の職員、警察、そして教職員が入居していた。4畳半6畳の2部屋に5畳ほどのダイニングキッチン、風呂洗面所のある家で、私はその4畳半を使った。
 
 プレハブのその屋根はワイヤーで固定されている。台風が来たときに飛ばされないためであった。屋根に降った雨水はドラムカンにためて飲用に使う。水道は塩分が多く天水の方がうまいのである。窓の外にはバナナやパパイアが植えてあり、手を伸ばしてもいで食べることが出来た。食事は支庁の食堂で3食とった。
 
 勤務先の小笠原高校は山の中腹にあり、始めは歩いて通っていたが、そのうち、バイク、そして自動車で通うようになった。東京都とはいえ、太平洋上1000キロである。本土のことは「内地」と呼んでいた。新聞は1週間分がまとめられてビニールの袋に入って売られていた。上が一番新しいのでニュースは結果から読むことになる。
 
 電話は電話局を呼び出してから順番待ちになる。相手の番号を伝えて受話器を置いて待つ。つながると折り返し局からかかってくる。電波の状態が悪いと使えなかった。TVはもちろん映らない。ラジオは夜でないと入らない。それも東京の局よりは韓国、中国などの局にまじって日本全国のものが雑音と共にうねって受信できた。太平洋のただ中にいる、というのはそういうことである。
 
 船便は10日に1回、島で必要なものはすべてそれで運ばれてきた。他に行くところが無いから、毎晩宿舎に集まって酒を飲んで話をしていた。強化合宿ようなものである。
 
 2年目はM先生が家族を呼び寄せたので、私は単身者用の宿舎に移った。図示したのはこの宿舎である。3畳の部屋が4つにDK、風呂洗面所の四角い家であった。これを2人で使った。それぞれ寝室に1部屋、あまった部屋は物置とオーディオ関係の機材を入れた。同居人は事務職員のTさんで2年間ご一緒した。
 
 Tさんは食堂を使わず、自炊していた。ヨット世界一周が夢で食費を切りつめて貯金していた。英語が心許なかったので、赴任してきた英語の先生と結婚、さっさと退職、世界一周新婚旅行を実現させた。偉大な人である。
 
 私は中学時代にアマチュア無線の免許を取り工業高校では電子科だったから、ここでFMの放送局を勝手に開局して音楽を流していた。生徒から電話でリクエストがあるとそれに答えたり、学校行事の日程を知らせたり、地元局みたいないことをしていた。もちろん違法である。郵政省の管轄だから、郵便局から何か言ってくるかと思っていたが、直接のおとがめはなかった。太平洋上の孤島なので、他に影響もないから見過ごしてくれたのかもしれない。オーディオのスピーカーもバックロードフォーンなどという構造の自作キットを船便で取り寄せて、ポップス、ロック、ジャズなどを大音量で聞いていた。
 
 離島の教員というのは仕事に就けば、食住はそれにすべてついてくるのであった。島流し、と言う言葉があるが、気持ちの持ちようでは天国である。ただ私はまだ若く情報から切り離され毎日同じ顔を見て暮らす閉鎖的な環境がうとましくなることもあった。そんな時は星明かりの中バイクを走らせ海の見晴らせる丘にいって気晴らしをしたりした。
 
  鬱の夜は南十字を望む丘

 

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1999.10

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 あとがき:こうして私は教員になった。それから25年経っている。初めて持った担任の生徒諸君は、もはや私が赴任したときよりも13歳も年長になっている。やはりだまされた感じである。小笠原時代は一つのまとまりになって、つい隣にあるようだ。

 私は自分と回りとの齟齬を常に感じてきた。歳を取ればそれがなくなるかも知れない、と思ったことがあった。しかし事実は違っていた。その感覚はよりはっきりしていくだけなのだった。玉手箱を開けた浦島太郎の気分である。自分の中で小笠原の海は永遠のように輝いている。そこに行くと私の知っている顔は誰もいないのである。

 ここに引用した宿舎もとっくに取り壊されている。このころから下手な俳句のようなものを始めた。ここでは季語は南十字である。夏になると水平線の上にこの星座を望むことが出来る。そのウェザーステーションも今は立入禁止と言う。無常迅速という他ない。(2001.5.5 )