私の教員時代(10)

 私にはよくわからなかった。これが世間で言うところの恋愛というやつなのか。どうも違うような気がする。相手が自分の中に入ってきたり、急に自分がくだらないことをしているように思えたり、そういうことを他の人が言ったり、書いたりしたのをみたことがなかった。こんな変なことにつき合わせて彼女に悪い。そう思った。

 新宿御苑を出て、中央線に乗ってお茶の水まで行った。確かジローに入ったはずだ。そこで軽い食事をした。夕方出航の時間まで時間がある。もう一度王子福寿荘に戻ることにした。部屋の中は散らかっていた。私の荷物はもうなかった。その中で私は彼女を押し倒した。彼女は「ここじゃ嫌」と言った。これはなんだか小説で読んだことのあるセリフだった。福寿荘を出て、駅に行く途中で、私は「さっきはゴメン」と言った。彼女は黙って顔を左右に振った。これもどこかで読んだ気がする。そして王子から電車に乗って浜松町まで行った。駅を降りたところで、彼女は小さなボール紙で出来た箱を私に押しやるようにして「私、見送らないから、ね。とても、だめ」と言ったのだ。

 そこで別れてから、2年後に一度見かけただけで香川知子と話しをすることはなかった。彼女のことは友人達に話していなかったから、出航前のあわただしい時間をあちこち挨拶をして回ってすごした。始めに述べたように、20数人の人たちが見送りに来てくれていた。父島丸がゆっくり岸壁を離れる。見送りの人達が蟻のように小さくなっていった。私は船室に入った。

 船室は特2等という列車の寝台車のような作りだった。下の広間の2等は毛布と枕が与えられるだけで雑魚寝である。特がつくだけあってそれよりワンランク上の特2等は個室の4人部屋である。同室者は島の人で、内地(東京のことをこう呼んだ)に用事で出てきたんだと言う。ジャズの話をした。ビッグバンドが好きだ、ということだった。この人は、私の今の妻の兄だった。もちろんこの時は、始めて話した島の人というだけであった。

 彼女がよこした箱の中は、綿を敷き詰めて沈丁花の花が入っていた。その匂いが狭い船室を満たした。東京湾を出るまで船は揺れない。外洋に出るとゆっくりとぎれなく揺れてくるのだ。

 それから彼女と文通した。ひと月に3度来る船便に会わせて郵便が来た。学校職員の郵便物は学校あてに来た。船が着いた日にプレハブづくりの高校の通用口に郵便物がぶちまけられた。その中から自分宛のものを捜すのだった。毎回手紙が来た。毎回返事を出した。そのうち、私は彼女に下着を買って送ってくれるよう依頼した。この時の変にねじけた気持ちは今も憶えている。BVDのブリーフのMサイズと私は細かく指定した。島は確かにものが払底していたが、金を出せば生協にはあった。また、そういう身の回りのものは姉に頼めば送ってくれた。

 それでも、私がわざわざ彼女にそのことを依頼したのは、そういうことが出来るかね?と相手を試す傲慢さと甘えがあった。そしてそのことに私は気がついていた。彼女はきちんと私の依頼通りのものを送ってきた。大学3年の女子大生がよくそこまでしたものだ。私は自分のしていることに気づいているつもりだったが、彼女が男物の下着を購入するときどんな気持ちだったかまったく考えていない。そうして私は、彼女が私の依頼通りのものを送ってきたとき、自分はダメになってしまう、と思い込み、そんな手紙を出して彼女との連絡を絶ってしまった。

 夏休みには研修と称して東京に帰ってくることが出来た。私は都立大学の後輩を集めて飲み会をした。飲み代は全額私が持った。彼女は来なかった。

2002.12.31

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 あとがき:年内には続きを書かないといけない、と強迫的に思っているうちに紅白歌合戦の時間になってしまった。今年はめずらしくTVをつけて紅白をかけている。今年に入って、このシリーズを始めた頃とずいぶん気持ちが変わってきてしまった。以前は自分なりに書くことに意義を感じていた。それが最近では半ば義務を果たすような気持ちになっていた。なんだか意味もないことをしている感じもする。自分が自分にした約束を果たすためだけの意味しかないみたいだ。来年はどうなるであろうか。