2019-03-01から1ヶ月間の記事一覧

私の浪人時代(19)

私は自分がデク人形になったようにカタカタ作業を続けながら、バチがあたったのだ、と思った。あんなはすっぱな女に気を許すからこういう罰を受ける。3階に行ったら麗子さんに許しを乞いこの白けた感覚から逃れるすべを与えてもらわなければならない。 とこ…

私の浪人時代(18)

この時期になると私の恋心は人に向かうことなく、京王デパートのマネキンが対象になった。3階エレベーター前で和服を着て酷薄そうにほほえんでいるのは「綾小路麗子」であった。彼女のそばを掃く時はいつも心の中で挨拶をしていた。彼女はまったく私を無視…

私の浪人時代(17)

遊び人風のK(国士舘)、謹厳実直なW(早稲田)、純朴なD(國學院)、暗い3浪の私、この4人が夏休み前に新宿の深夜喫茶に集まって、トランプなどをして過ごしたことがあった。大学生たちは3ヶ月もすると、自分のスタンスを決めて学生生活を送るように…

私の浪人時代(16)

どこに行っても人間がいる。私は人を避けて暮らしたかったが、仕方なくやっている清掃のアルバイトにも人間関係があった。一緒に働いているのは私と同年代の学生3人、それにおばさんが2人だった。仕事中は担当した場所を黙々とやっていればそれで済むが、…

私の浪人時代(15)

4月に入ってしばらくは毎朝、ため息をつきながら新聞の求人欄を見て過ごした。ともかく何かバイトを捜さなければならない。新宿の京王デパーで ビル清掃の求人があった。他に思いつかなかった。履歴書を書き現在の記入欄は浪人中とした。仕方ない、もう1年…

私の浪人時代(14)

合格発表はいつも一人で見に行った。都立大学の発表を見に行くのは2回目になっていた。それまではあまり可能性がないので午後遅くになってでかけていた。今回は午前中に福寿荘を出た。東急東横線の都立大学駅を出ると緩やかな坂になる。確か柿の木坂という…

私の浪人時代(13)

20歳の誕生日の前に私は妊娠した弥生を捨てることにした。東京に大雪の降った朝であった。弥生をバッグに入れて誰も踏んでいない雪の道を歩いて国電の路線を越え上中里方面に向かった。来たことのない路地を歩いていくと住宅街に出た。見知らぬアパートの…

私の浪人時代(12)

東大や教育大のような難関大学の入試が行われないとなると、当然そのレベルの受験生は別の大学を受験するから、コトは2大学の問題ではなく、玉突きのように多くの大学の合格レベルがあがることになる。模試の合格可能性も前年度のデータが基準だから、今年…

私の浪人時代(11)

個人的な体験は鳥(バード)と名付けられた予備校教師に障害児が産まれる話である。私は帰宅して3時間ほどで読み切った。ただちに彼女に手紙を書き始め、翌日までにB5レポート用紙42枚の作品ができあがった。本の感想を書くつもりが自分の孤独な生活を…

私の浪人時代(10)

彼女は淡いオレンジのミニのノースリーブを着ていた。予想外だった。東大女子学生だからガリ勉で地味なスラックスに眼鏡をかけて髪は無造作に輪ゴムでたばねているような姿を何の根拠もなく考えていた。マンガで見る東大生は度の強いグルグルメガネをかけ猫…

私の浪人時代(9)

受験生になって見るとトーダイは一番えらい大学であることがわかった。私が1週間もかけてそれにかかりきりになってやっとのことでなんとか答えた大学への数学の学力コンテストで毎回満点をとり連続成績優秀者となっているのはほとんどが東大志望であった。…

私の浪人時代(8)

つまりは私は女性コンプレックスなのである。そしてその中味は自分は劣っていて女性に相手にされるわけがないと強く確信していて自分はみすぼらしくよごれけがれて醜く相手が若い女というだけで自分より格段に優れている別世界の光輝く存在であると感じ、に…

私の浪人時代(7)

私は目的があって大学へ入りたいのではなかった。他にいきようがないから浪人しているのである。工業高校を卒業しているのであるから就職すればよいものをそのまま就職してもやっていけないような気がして、しかたなく受験勉強をしているのであった。 この勝…

私の浪人時代(6)

英語を訳すことで、形容詞とか動詞とかいう意味もはじめてわかった。国語でそういう用語を学んでいたはずであったが、それまではさっぱり理解できなかった。あとは日本語で表現するときに注意すればいいのである。これはなかなか面白い作業だった。成績もま…

私の浪人時代(5)

それが正しいのかどうかわからなかった。まったく能率の悪いやり方かも知れなかった。きっと進学校のやつらはもっと正当なやり方をしていて、効率的に勉強しているように思えた。不安だった。英文解釈も始めはまったくわからなかった。 初めて買った辞書は研…

私の浪人時代(4)

上野で降りたようだった、というのはきちんと彼女だと確認できなかったからで、私はなかばやけになって上野駅の人混みの中を動物園方向の改札から出てずんずん歩いて行った。暑かった。もう自分が何をやっているんだかわからなくなっていた。寂しい方へ寂し…

私の浪人時代(3)

予備校には都電で通った。28年後の現在でも東京都に1路線だけ残っている早稲田線である。王子駅前から東池袋4丁目まで滝野川の住宅地の路地裏をぬって走っているような路線である。池袋の英進予備校の近くには戦犯を入れた巣鴨プリズンの跡地があった。…

私の浪人時代(2)

夏休みには長野県の学生村に一か月行って勉強した。これもたまたま見た新聞の記事で受験生に民宿を安く世話する、という企画が出ていたのである。実習助手とはいえさすが都の公務員である、夏休み前にきちんと一時金(ボ-ナス)が出たのでそれを使った。 そ…

私の浪人時代(1)

私は昭和42年(1967) に都立王子工業高校電子科を卒業した。都立荒川工業高校電子科実習助手の辞令を受けたのは5月1日であった。翌年3月に退職するまで私は毎日同じ夏物の背広を着て同じネクタイをして王子から南千住まで通勤した。冬はその上にコ…

私の高校時代

私は昭和三十九年(1964) に都立王子工業高校電子科に入学した。ここを選んだのは、近かったのと家の経済状況と当時自分がラジオ工作などが好きだったからである。 父は千葉県から上京して、蔵前工業(現東工大)を卒業して、都の役人をやった後、「はんこば…