私のバイト時代 (15) 

 このバイトを結局4年近くやった。それだけ長く続いたのは、全く一人で全行程を出来たからだと思う。朝8時に現場に入って、工事中の屋内で着替えて黙々と作業する。10時になったら休憩20分、12時まで仕事をして、昼休み1時間。午後の1時作業を再開して3時に休憩、4時半には片づけに入って5時には現場を出る。
 
 タイムレコーダーも監督する上役もいないが基本的にはその時間を守った。始めの時間も終わりの時間も休憩も全て自分で勝手に決めればよいのだが、規則正しく作業した方が能率も上がり疲れないものである。私はオヤジさんから日給制で給料をもらっていたが、オヤジさんは仕事量で請け負っていた。
 
 当時で1m200円ほどだった。慣れてくれば1日100mこなすのにそれほど苦労しない。月20日働けば、40万円程になる。ラーメンが100円程の時代だったので、今の金額に直せば売り上げは月150万円にはなるだろう。もちろん私の手取りはもっと少ない。オヤジさんからは1日分✕勤務日数分の手当をもらっていた。
 
 現場を仕切っているのは、大手の建築会社でそこに下請けの会社が入っている。例えば、清水建設が請け負うと、山田ガラスというガラス会社がその現場のガラス関係を全て行う。ガラス回りの工事が多かったので、その山田ガラスから仕事をもらう。
 
 オヤジさん以外にも同じ現場で一人でコーキングをしている職人がいた。まだ20代後半と思われる若い男が、私に独立して一緒にやらないか、と話を持ちかけてきた事があった。オヤジさんは、そういう職人を渡り職人と言って嫌っていた。
 
 私は金の事を考えると心が動いたが、年を取って40代になっても夏暑く冬寒い現場の仕事をするのかと思うと体がためらった。それにほとんど通学していないとはいえ、3年も浪人して入った大学を辞める決心はつかなかった。
 
 そして決定的だったのは、私が椎間板ヘルニアを患ってしまったことだった。整形外科で体に合わせて作ってもらったコルセットをして、週に2、3回は通院していた。手術をすれば治るかも知れないが、成功率は50%だと当時の主治医はいった。
 
 いつも腰に重い痛みがあり、少し無理をすると右脚がつま先までしびれる感覚がして腰の痛みは激しくなった。現場の行き帰りに山手線の中でしゃがんでしのいだこともある。夜はうつぶせに寝られなかった。体の冷える冬はさらにひどかった。
 
 そんな体で現場の仕事など早くやめればよかったが、それだけの収入のあるバイトは他に思いつかなかった。そして、特に将来の希望もなく、友人もなく、なかば自棄になって体を痛めつけてそんな辛い時期を過ごしていたのであった。
 
 その渡り職人の仕事は手抜きでいい加減だった。コーキングを詰めるときに表面だけ軽く乗せてその上からヘラを斜めにしてなぞると、ネタの量も少なく時間も短く見栄えも良い。そんなやり方で我々の5割り増しほどの速さで仕事をしていた。そのかわり、耐用年限は短くなる。表面を見ただけではわからないから終了検査には引っかからない。
 
 オヤジさんの仕事振りはその逆で、これでもかというほどネタを充填し、さらにその上からヘラで強く押しならした。ヘラの形からして違っていた。その渡り職人のヘラは先をなめらかに丸くけずって、どこを当てても仕上がりがなめらかになるようにしてあった。そのヘラ1本で全ての場所をこなしていた。
 
 オヤジさんのヘラは直角に角をつけてけずってあり、大きさの違うのが2本、それにカーブのついたところ用に先を丸く削ったヘラを1本持っていた。場所に応じてそれらを使い分けるのである。当然時間はかかる。材料費もかかる。だが長持ちする。オヤジさんが渡り職人を嫌うのもわかる気がした。                
 
 99.2.10

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 あとがき:私の使っていたへらはオヤジさんと渡り職人との中間形だった。へらの片側は直角に角をつけ、反対側は丸くカーブをつけた。これ1本で大抵のところはこなすことが出来た。直角の角もほんの少し削って丸みをつけておいた。こうすると押さえたネタの逃げ場が出来て、仕上がりもなめらかになる。

 おやじさんのようにきっちり角をつけると遊びがないので、ネタはしっかり充填されるが、ワキにはみ出る量も増える。角度を一定に保っておかないと仕上がりが一目で悪くなる。つまりオヤジさんのへらを使うには、技量と膂力がないとだめなのだ。私にそこまでの力と経験はない。

 へらは洋食につかうナイフを削って作る。始めはおやじさんから渡されたへらを使っていたが、そのうち食器売り場にいって手頃なナイフを探し、ヤスリで形を整えて使った。使ってみて何度も修正した。自分で調整したへらには愛着がある。私はもう1本、小さな溝用の小振りなへらも自作した。この2本で、すべての現場をこなすことが出来た。仕事自体は工夫してやると楽しいものだった。(2001.9.1)