私の浪人時代Ⅱ(10)

 現実的に無駄な11年間と書いたのは、東大を卒業しても、世間でいうような「一流大学を出て大企業に入って裕福な人生を送る」ということとは全く無縁だったからである。
 
 明治生まれの父は千葉県から上京し都の公務員をやめた後、自分で事業を興しそれに失敗して晩年は小さな電気会社の用務員のようなことをしていた男であった。私は3年前に幸運にもローンで中古の家を購入するまで、生まれてからずっと自分の家というものに住んだことはなく転々と間借り生活をしてきた。
 
 当然家計は苦しく、高校を出たらすぐ就職するように工業高校に入学した。とりたてて人より優れたところがあるわけでなく、そういう人間が世間並みの暮らしをしようと思えば、勉強でいい成績を取って世の中へ出ていくしかない。
 
 母親が病弱だったせいで十分世話されて育てられたわけではないので、私は精神的に不安定であった。その欠落感を埋めるために神経症になりながらも3年間の受験勉強をしたのであった。
 
 27歳にしてなんとか教員になった後も空しい自分を埋めるために東大受験までしたのである。教員をしながらの東大生は個人的には面白い経験だったが、公認はされていない。風変わりな趣味といったところであろう。私の都立高校教員の処遇とは無関係である。
 
 50歳を目前にして30年前、20年前の浪人時代を振り返って私に後悔の念はまったくない。まったくないが、この浪人時代に費やした時間と労力をもっと他のことに向けていたら、あるいは別の生活があったかもしれない、と思うことはある。個人的な趣味として片付けられるほど受験生活は軽くなかった。
 
 入学試験の知識はおおむね実際の社会生活に役立たないが、私は幸運にも高校の教員になれたので、受験の経験は職業上の知識として無益ではなかった。もっとも、私の勤務した学校は島の僻地、定時制、単位制と高校教育界では辺境に位置しており授業一つをとってみても受験の知識はほとんど役にたたなかった。
 
 無駄といえば無駄、下手に通じている分かえって不満がつのり邪魔ですらあった。そんな鬱積からこの「浪人時代」を書きつづってきたのだと今気がついたところだ。
 
 クラス通信に連載する、と自分で決めて書いてきたが、毎回書き始めるまでは結構ぐずぐずしていた。そこを通り越して始めるとなかなか楽しく、だいぶ前のことなのにいまだに私には受験時代の感覚が強く残っていて現在とまったく離れたこととは思えなかった。すぐに浪人時代の茫漠とした気分に浸ることができるのである。
 
 離れて見ればこれはこれで貴重な感覚で、私の青春の重要な部分を占めているのでなにより私にとって大切なものなのである。原則として今の自分を知っている人を読者に選んで配布してきた。そうした読者から様々な反応がありそれに勇気づけられて続けることが出来た。感謝する次第である。書き残したことも多いがひとまず一区切りとしたい。   
 
 98.3.23

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 あとがき:これで浪人時代シリーズはひとまず終わりです。メールマガジン版にものべ12人の方から27通のお便りをいただきました。ありがたいことです。2人の方を除いてはご返事いたしました。1名は私の人格に嫌悪感を持った人で、嫌な相手からメールなど受け取りたくないだろう、と返信は控えました。もう1名はご相談のメールでした。とてもメールで扱えないので返信できませんでした。遠くポーランドアメリカ、イギリスの海外からのお便りもいただきました。本当にありがとうございました。
  次回からは小休止の意味もあって、「私の住宅事情」と題して、20世紀後半の私の転居記録をお送りします。これはFHJ(全国高等学校家庭クラブ連盟)の機関誌に連載したものの再掲です。6回分あります。その後は、私のバイト時代、私の大学時代、と続く予定です。マールマガジンの読者数は330人ほどです。クラス通信版が約30部でしたので、その10倍ということになります。インターネットはこういうところは便利です。(2001.4.7)