浪人時代

私の浪人時代Ⅱ(10)

現実的に無駄な11年間と書いたのは、東大を卒業しても、世間でいうような「一流大学を出て大企業に入って裕福な人生を送る」ということとは全く無縁だったからである。 明治生まれの父は千葉県から上京し都の公務員をやめた後、自分で事業を興しそれに失敗…

私の浪人時代Ⅱ(9)

結局願書を出したのは東大理Ⅱだけだった。精神科医への道は入学後の可能性に賭けることにした。基準点は830点前後と予想されていたから、2次試験が受験できるのは確実である。 試験日は3月3日4日で3日は私の31歳の誕生日である。会場は本郷であっ…

私の浪人時代Ⅱ(8)

受験手続きの書類はほとんど予備校のいうとおりにしていればそろったが、調査書だけは出身校へ取りに行った。3浪の時に行ってから10年たっていた。 王子工業高校の校舎は少し改築されていた。事務の窓口で申請書を出した後、職員室に顔を出した。私はすで…

私の浪人時代Ⅱ(7)

10年前の3浪の時と違うのは予備校に負うところが大きい。健康診断から始まって願書の取り寄せ応募の期間、と一つ一つ全部自分で確認しなければならなかったが、そういうことはすべて用意されていた。私はただ言われるままに動いていればいい。 模擬試験も…

私の浪人時代Ⅱ(6)

いつものように「ただいま」といって帰宅すると、妻はやはり黙っていた。どうしたものか、と思ってこちらも黙る。すると「バイトすることにした」と妻は宣言した。清瀬駅南口商店街のはじにある本屋のアルバイトを見つけてきた、と言うのであった。 妻は妻で…

私の浪人時代Ⅱ(5)

予備校の授業は午前中だけ出て、アパートに帰る。昼食を食べて時間があれば昼寝して勤務先に行った。自転車で10分ほどの距離であった。夕食は定時制の給食を食べたから、家で妻の作った食事をするのは休日を除いては昼間だけである。 その後私は12年間こ…

私の浪人時代Ⅱ(4)

なぜ私が13浪を意識したかというと、予備校が始まって一月ほどした頃、3浪以上の受験生が呼び出されたことがある。昼休みに校内放送があり40人ほどの生徒が教室に集められた。現在の体調などを記入する簡単なアンケートが配布された。相談ごとがあれば…

私の浪人時代Ⅱ(3)

朝起きるのは6時半。7時半にはアパートを出た。新築2DKの錦翠苑という焼き肉屋のような名前の203号室である。モルタル2階立てで前の道路が埼玉県との県境であった。ここには1年と3カ月しか住まなかったが、さすが我が人生最良の年である。電話番…

私の浪人時代 Ⅱ(2)

予備校は午前部だったので8時半頃から1時間目が始まった。50分1コマで午前中に4コマある。午後は選択で理科社会の科目になっていた。この1年間力を注いだ科目はまず英語である。英文読解、英作文、文法、総合問題、と受験に必要な項目別に授業があっ…

私の浪人時代 Ⅱ(1)

昭和42年(1967)3月に王子工業高校を卒業して昭和45年(1970)4月に東京都立大学に入学するまでの3年間を私の浪人時代の第一期とすると、第二期は昭和54年(1979)4月から昭和55年(1980)3月までの1年間である。 6年かかって都立大学を卒業した私…

私の浪人時代(資料編)

浪人1年目の長野の学生村で描いたもの。高校時代は漫画家志望。ガロの新人応募向けに作品を描いたが投稿しなかった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━ あとがき:この手の資料がまだまだある。いつかは整理しないといけない、思っているが、まさにこの1年ぐらいがその…

私の浪人時代(21)

仕事もやめ、福寿荘北向きの4畳半に夜いることになると暖房が大変だった。部屋が片づいていれば石油ストーブを入れるのが普通であるが、とてもそんな余地はない。申し訳程度についている流しの脇のガス台でやかんで湯を沸かして暖を取ることにした。 沸いた…

私の浪人時代(20)

生徒にしてみれば、まったくいいことを考えたつもりだった。私は事態がそういう風に進むとは全く考えていなかったので狼狽した。自分の中だけで完結している話のつもりだった。計算してみると君子さんはもう40代の半ばのはずである。私の妻より年上になる…

私の浪人時代(19)

私は自分がデク人形になったようにカタカタ作業を続けながら、バチがあたったのだ、と思った。あんなはすっぱな女に気を許すからこういう罰を受ける。3階に行ったら麗子さんに許しを乞いこの白けた感覚から逃れるすべを与えてもらわなければならない。 とこ…

私の浪人時代(18)

この時期になると私の恋心は人に向かうことなく、京王デパートのマネキンが対象になった。3階エレベーター前で和服を着て酷薄そうにほほえんでいるのは「綾小路麗子」であった。彼女のそばを掃く時はいつも心の中で挨拶をしていた。彼女はまったく私を無視…

私の浪人時代(17)

遊び人風のK(国士舘)、謹厳実直なW(早稲田)、純朴なD(國學院)、暗い3浪の私、この4人が夏休み前に新宿の深夜喫茶に集まって、トランプなどをして過ごしたことがあった。大学生たちは3ヶ月もすると、自分のスタンスを決めて学生生活を送るように…

私の浪人時代(16)

どこに行っても人間がいる。私は人を避けて暮らしたかったが、仕方なくやっている清掃のアルバイトにも人間関係があった。一緒に働いているのは私と同年代の学生3人、それにおばさんが2人だった。仕事中は担当した場所を黙々とやっていればそれで済むが、…

私の浪人時代(15)

4月に入ってしばらくは毎朝、ため息をつきながら新聞の求人欄を見て過ごした。ともかく何かバイトを捜さなければならない。新宿の京王デパーで ビル清掃の求人があった。他に思いつかなかった。履歴書を書き現在の記入欄は浪人中とした。仕方ない、もう1年…

私の浪人時代(14)

合格発表はいつも一人で見に行った。都立大学の発表を見に行くのは2回目になっていた。それまではあまり可能性がないので午後遅くになってでかけていた。今回は午前中に福寿荘を出た。東急東横線の都立大学駅を出ると緩やかな坂になる。確か柿の木坂という…

私の浪人時代(13)

20歳の誕生日の前に私は妊娠した弥生を捨てることにした。東京に大雪の降った朝であった。弥生をバッグに入れて誰も踏んでいない雪の道を歩いて国電の路線を越え上中里方面に向かった。来たことのない路地を歩いていくと住宅街に出た。見知らぬアパートの…

私の浪人時代(12)

東大や教育大のような難関大学の入試が行われないとなると、当然そのレベルの受験生は別の大学を受験するから、コトは2大学の問題ではなく、玉突きのように多くの大学の合格レベルがあがることになる。模試の合格可能性も前年度のデータが基準だから、今年…

私の浪人時代(11)

個人的な体験は鳥(バード)と名付けられた予備校教師に障害児が産まれる話である。私は帰宅して3時間ほどで読み切った。ただちに彼女に手紙を書き始め、翌日までにB5レポート用紙42枚の作品ができあがった。本の感想を書くつもりが自分の孤独な生活を…

私の浪人時代(10)

彼女は淡いオレンジのミニのノースリーブを着ていた。予想外だった。東大女子学生だからガリ勉で地味なスラックスに眼鏡をかけて髪は無造作に輪ゴムでたばねているような姿を何の根拠もなく考えていた。マンガで見る東大生は度の強いグルグルメガネをかけ猫…

私の浪人時代(9)

受験生になって見るとトーダイは一番えらい大学であることがわかった。私が1週間もかけてそれにかかりきりになってやっとのことでなんとか答えた大学への数学の学力コンテストで毎回満点をとり連続成績優秀者となっているのはほとんどが東大志望であった。…

私の浪人時代(8)

つまりは私は女性コンプレックスなのである。そしてその中味は自分は劣っていて女性に相手にされるわけがないと強く確信していて自分はみすぼらしくよごれけがれて醜く相手が若い女というだけで自分より格段に優れている別世界の光輝く存在であると感じ、に…

私の浪人時代(7)

私は目的があって大学へ入りたいのではなかった。他にいきようがないから浪人しているのである。工業高校を卒業しているのであるから就職すればよいものをそのまま就職してもやっていけないような気がして、しかたなく受験勉強をしているのであった。 この勝…

私の浪人時代(6)

英語を訳すことで、形容詞とか動詞とかいう意味もはじめてわかった。国語でそういう用語を学んでいたはずであったが、それまではさっぱり理解できなかった。あとは日本語で表現するときに注意すればいいのである。これはなかなか面白い作業だった。成績もま…

私の浪人時代(5)

それが正しいのかどうかわからなかった。まったく能率の悪いやり方かも知れなかった。きっと進学校のやつらはもっと正当なやり方をしていて、効率的に勉強しているように思えた。不安だった。英文解釈も始めはまったくわからなかった。 初めて買った辞書は研…

私の浪人時代(4)

上野で降りたようだった、というのはきちんと彼女だと確認できなかったからで、私はなかばやけになって上野駅の人混みの中を動物園方向の改札から出てずんずん歩いて行った。暑かった。もう自分が何をやっているんだかわからなくなっていた。寂しい方へ寂し…

私の浪人時代(3)

予備校には都電で通った。28年後の現在でも東京都に1路線だけ残っている早稲田線である。王子駅前から東池袋4丁目まで滝野川の住宅地の路地裏をぬって走っているような路線である。池袋の英進予備校の近くには戦犯を入れた巣鴨プリズンの跡地があった。…