私の教員時代(9)

 出航の31日は新宿で知子と待ち合わせた。新宿御苑の入り口というのが彼女の指定だった。新宿御苑は小学校の遠足以来入ったことがない。私は手ぶらだった。いつも大学へ行くときのようにGパン(ジーンズという言い方は当時していなかったのを思い出す)にセーターを着ていった。荷物はすでに運送会社に依頼してあった。当日の小荷物は竹芝桟橋のコインロッカーに入れた。

 空は曇っていた。風はなく空気はよどんでいた。そして春だった。午前中だというのに夕方のような気がする。妙に現実感がなかった。新宿御苑の門の前で彼女は待っていた。あの「事件」の時と同じ白いセーターを着ていた。公園内を2時間ほどぶらぶら歩く。特に話すこともなかった。沈丁花の香りが時折よどんだ空気の底に濃密にたなびいていた。見てもわからないが、空気に濃淡があって、その香りは強くなったり弱まったりした。

 午前中の苑内に人影はまばらだった。沈丁花の香りがひときわ濃くなったと思うとあたりが暗くなった。雲は重くたれ込めていてとても昼間だと思えない。彼女はふいに立ち止まると両手で自分を抱きしめるようにしてしゃがんでしまった。どうした?と声をかけようとして声が出なかった。私は彼女のそばに立ってじっと彼女を見ていた。現実感がなくなっていった。鼓動が強くなり喉が渇いた。しゃがんでいる彼女を見ていると彼女の呼吸が直に自分に伝わってくるようだった。自動的に私は慎重に息を整えて彼女の呼吸に合わせている自分に気がついた。

 私が彼女に手を伸ばそうとしたその時、彼女はゆっくりとたちあがり、私を見た。彼女の目は強く濡れていた。私はそこから目を離せなかった。あたりの空間が奇妙にゆがんでいった。彼女の顔も体もよくわからなくなった。その目を中心にあたりが絞り込まれるような感覚の後、彼女が私の中に入ってきた。胸が熱くなった。私は自分の体に起こった異変にとまどっていた。何だ、これは。一体自分はどうなったんだ、と頭の中でつぶやいていた。

 それは彼女の家まで送っていって別れ際にキスされた後と似ていた。あの時は彼女の感情が流れ込んできたような感覚だった。今度は、彼女の様々な印象、二人でいるとき不意に黙る彼女の様子や大学で友人達と馬鹿話をしている表情や電話口でのため息やその後の押し殺したような低いもしもしというかすれ声や形の整ったきれいな手紙の字や沈丁花の香りに混ざっている若い女の髪の匂いや、そういった彼女を感じられるすべての印象がいきなり私の中に重く熱くどっしりと入り込んでしまった、とでも言う感覚だった。

 彼女は私を見つめたままゆっくりと後ずさり砂利の敷いている道端を超えて、大きな樹に背中をあずけて止まった。私も彼女との距離を保ったまま、木陰に入りこんでいた。その間ずっと目が離れなかった。彼女が止まった後も、私は慣性の法則によってそれまでの速度そのままにゆるゆると彼女の顔に近づいていった。伸ばした両手の先が樹の肌に触れ両手で彼女の顔を挟むようにして自分をささえる格好になった。視界が彼女の顔で埋め尽くされ、さらにその強く濡れた目に覆われていった時、私の頭の中で、えい、もうどうなってもかまうもんか、という声がした。同時に彼女が目を閉じた。私も、目を閉じていた。

 息づかいを感じ唇が唇に触れると、それまでの非現実感が瞬く間に収束し、私は新宿御苑に引き戻された。春の曇り空の下、公園の木陰で昼間からいちゃついているアベックがいる。女を樹に押さえ込み顔を重ねているのが私だった。くだらないやつだ。さっきまで確かに自分の中にいた彼女の感じもいつの間にか消えていた。替わりに熱く湿った怒りのようなものがうずいていた。私は自分をもてあました。私の体はすばやく彼女から離れた。混乱したままそれでも私は彼女から目を離さなかった。彼女はゆっくり目を開けた。なんだか事態が良く飲み込めない、といった風だった。とろんとした目が少し寄り目がちに「どうしたの?」と私を見ていた。

 私はその愛くるしい表情を見つめながらしばらくそのまま立ちつくしていた。彼女はふっと目をそらすともう一度顔を上げて私を見た。あの気弱な微笑みが戻っていた。私は彼女から目を離すとだまって出口の方に歩き出した。

 2002.11.24

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 あとがき:今回で出航前の話は終えるつもりでした。書き始めるまでどうなるかわからない。昔一度見た映画をもう一度見るように、全体の流れはおぼろげにわかる。ただ細部は映画を見るまで思い出せない。見始めると次々と画面を思い出す。そんな感じだ。今年の春から始めて週一から少なくとも月二回の発行を目論んでいた。結局月一がやっとという状態だった。いろいろ所用があったのも事実である。25年も前のことを思い出すような気持ちになるまでが結構時間がかかった。今日は珍しくそういう時間が取れた。年内には竹芝桟橋から小笠原に向けて出航するところまで書くつもりでいる。