私の教員時代(14)

 高校は1学年が8名、2学年が15名、3学年が13名の生徒数計36名、教員は国語2社会2数学1理科2保健体育1英語2家庭科1の12名、これに教頭校長で計14名となる。音楽美術は中学の先生が時間講師に来ていた。単学級校としては必要最小限の布陣である。それでも生徒3人に専任教員1だからずいぶん贅沢な人員配置だ。最近は中高一貫の6年生の学校が増えている。小中一貫の試みもある。離島では小中高一貫と言っていい。ここの生徒は小学校からずっと持ち上がりなのだった。

 私が赴任したときは5人教員が変わった。ほぼ40%変わったことになる。同一校は少なくとも3年勤務するのが基本である。全員が3年で異動したとすると毎年33%入れ替わることになるから4割は多い方だ。学校の雰囲気ががらりと変わる。生徒たちはこの教員の異動には慣れていて、私もあった時すぐに言われた。「先生はいつ帰るんだい」微妙にアメリカ英語の訛りがあった。初めての挨拶がそれだった。思うところがあってそう言うのではない。単純な事実を述べているだけなのだ。

 赴任の期間から教員は2つに分けられた。6年以上いて島に住み着いた形になっているものと3年ほどで異動するものである。このとき着任した5名はその後、1年1名、2年2名、3年2名といずれも3年以内に内地に異動した。しかし在島年限と反比例するように島での印象は強い。4月から6月まで、強化合宿と呼んだ職住一致の怒濤の生活が始まった。それはプライバシーがほとんどないような環境だった。

 12人しかいない職場でも人間の好き嫌いというのはしょうがないものでちゃんと派閥らしいものがあった。その派閥は人の異動でいつも変わった。我々の転入者の中では、私と同居した英語の「隠居」はそれまでなかった職場団体の「組合」を立ち上げてその分会長におさまった。それで、それまでいた職員が入れ替わり立ち替わり私たちの宿舎に来た。来て島の生活のことやその他もろもろのことを話していった。当然飲み話になるから、なんだか飲み屋に開いているようだった。明け方の3時4時まで「営業」した。それがほぼ毎日、3ヶ月ほど続いた。

 翌日学校へ行くと生徒たちは朝何時までやっていたか知っていた。それは宿舎の向かいに生徒が住んでいるアパートがあって、そこから見下ろせるからだった。職場でも自宅でも同じ顔を見て暮らした。私は行かなかったが、島の寿司屋や3軒ほどしかない飲み屋に行くと、そのことは皆知れわたっているようだった。この行き場のない閉塞感から逃げた教員がかっていたという。それは5年ほど前のことで、朝のHRが終わった後で、波止場に停泊していた漁船に乗って脱出した、というのである。行き先は気仙沼で、当然高校教員は退職になったが今はある小学校の用務員として働いている、というのだ。
 
 私自身はそれほど堪えなかったが、その環境がストレスになっている人もいた。そのストレスを発散させようと話にくると、それがまたストレスの原因になるのだった。悪循環である。自分は自分、人は人、と思っていればいいのだが、人がどう思っているか気になるようなたちの人だとこれはなかなかつらいものがあるといえる。

 この強化合宿期間3ヶ月のあと、新しい派閥が形成された。私と隠居は、それまでいた人の一方の派閥と融合して最大の勢力を誇ることになった。

2004.12.31

━━━━━━━━━━━━━━━
 また6ヶ月経った。暮れの大晦日に紅白も見ずに何とか1回分を埋めている。過去に対するある種の判断がないと姿勢を決めて書くことはできない。その判断がまだあやふやである。そのうち過去などどうでもよくなってくるからここ2,3年が勝負かもしれない。来年はもう少し自伝シリーズに従事できるであろうか。