私のバイト時代 (8)  

 そして最後に、ポリッシャーを担当した。これが一番楽だった。作業の先頭だから、仕事のペースは自分で決めることができる。はじめは扱いにくかったポリッシャーもしばらくすると片手で操作できるようになった。電源コードをのばして短時間ならリモコンで遠隔操作するワザまで修得した。
 
 床洗い作業の全行程をマスターしたとき、私はワゴン車を手に入れて自分で仕事を請け負って掃除マンになれないだろうか、とひそかに夢想した。まだ18歳になっておらず、自動車の運転免許も取得していないので、現実性はなかったが、仲間を3人ほど集めれば、不可能ではない。
 
 ただ、仕事の注文を取るのが無理だろうな、と思った。技術があるだけで、信用のない若い人間が仕事を請け負うことは難しい。結局、この夢想は今に至るまで実現していない。もし教員をやめることになったら、どこかの掃除会社に入ってしばらく働けばそういうツテができるかも知れない。今や50代の東大出である。社会的信用はあるように思われる。
 
 掃除のバイトは高校時代そして浪人2年目と都合4年間ほどやった。会社の営業していない時間に仕事をするので、一般の人が休んでいる時間に勤務するのはラーメン屋と同じであった。バイトは正業(生徒・学生)の合間にやるので、そうなってしまうのは致し方ない。だが次にやったバイトの勤務時間は通常の勤務だった。つまり私は正業の学生をいったん中止してバイト生活に入ったのである。
 
 都立大学に入った年の7月に青山墓地のすぐそばにある測量会社に勤めた。夏休みの学生アルバイトとして入ったのだが、休みが明けてからも5ヶ月ほど続けた。今ではanなどというしゃれた名前になっているが、当時はアルバイトニュースというガリ版刷りの小冊子が鉄道弘済会売店に並べられた頃だった。アルバイト斡旋業界がこの雑誌でスタートしたのである。
 
 バイトの応募はその雑誌を見たらすぐに電話をして申し込まないと間に合わない。いくつか申し込んで断られた後、やっと測量会社に採用が決まったのであった。
 
 事務所は社長の自宅の庭に建てられた2階建てのプレハブで社員は眼鏡をかけた女事務員と30代の痩せた男と初老の社長の3人だった。そこへ私が加わって4人で仕事をした。
 
 私の仕事は測量助手で、社長が運転するライトバンにその男と3人で乗り込み、現場に出かける。男は背中にトランシットをかつぎ、私が紅白の縞模様のあるポールと20mの巻き尺を持ち、社長は記録用紙を持って3人で作業する。
 
 測量は基点を決めて、そこからの直線距離と角度を測定して記録し、事務所で図面に起こすのである。細かな3角関数表と手回しの計算機を使っていた。当時は現在のような電卓もなく、ましてコンピューターなど問題外である。
 
 直線距離を測るのはなかなか大変だった。道路だと、信号で車が通らなくなった一瞬をのがさず、スチールの巻き尺でさっと測らなくてはならない。許可もなにもあったものではない。民家の測量では、家の裏手に回り、塀を越え、泥棒のような作業であった。普段入らないところに行けるので、これはこれで面白かった。
 
 大きな現場としては、川崎の化学プラントが面白かった。朝、武蔵溝の口のガード下で車が来るのを待ち合わせて、3人で押し黙ったまま現場に向かう。トランシットの男は無口で、作業上必要なことしか言わなかった。社長も口を閉じている。カーラジオだけが、交通情報やその日の天候や簡単なニュースを流していた。現場に着くと守衛所で許可証を見せて、通常は中に入ることのできない化学工場を測量した。
 
 98.10.26

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 あとがき:この測量会社に行くには渋谷で地下鉄銀座線に乗り換える。渋谷駅はその名の通り谷の下に位置する。銀座線は地上3階ほどの所にプラットフォームがある高架線になってしまう。帰りの時間には夕陽にさらされることになる。地下鉄の車内から見る落日はなかなかのものだった。勤め先には外苑前で降りて10分ほど歩く。すぐ裏手は墓地で樹木が多く、夏でも薄暗くひんやりとしていた。バイトとはいえしばらく通うことになる。あたりの土地勘ができる。東京の辺境に育った私は青山・六本木が近いこの辺は無縁の場所であった。さらに測量現場は都内のみならず近県まで足をのばした。行く先々の土地柄も自然と身についた。バイト様々と言えよう。 (2001.7.14 )