私のバイト時代 (18) 

 生涯たった一度だけ見合いをしたことがある。それはオヤジさんの紹介だった。「君は良く工夫している」とオヤジさんは私をかっているようだった。仕事をするにも、最後の結果を考えて段取りを考えてている、というのである。
 
 教えられた通りにやっていても充分勤まったが、それではやっていて面白くない。仕事の順序からヘラの角度まで、私はいろいろ試してみて、最短の時間で最良の仕上がりになるよう工夫していた。
 
 これは受験勉強の時に覚えた方法論で数学の問題を解くときと同じである。答えは同じでも、どんな解き方をするかによって、時間も違えば、計算の労力もだいぶ違う。そんな工夫をあれこれ考えているときは楽しかった。
 
 それに私は貧しかったので、経済力があれば医学部に進みたかった、などと話したことがある。オヤジさんはそれを覚えていたようだった。相手は茨城県の牧場主の娘で、なんでも膨大な土地を持っていた。男の子がいないので、跡取りを養子に迎えたい、と言うのである。
 
 年は26歳で私より一つ上だった。女性コンプレックスの私は内心動揺して、オヤジさんの申し出を断った。オヤジさんはつき合っているのがいるのか?と小指を立てて私に聞いた。適当なウソのつけない私は、そういう人はいない、と答えた。「それなら一席もうけるから、一度会って見ろ」と日取りを決めてしまった。一度約束したら守る私の性格を知っていて、半ば強引に押せばなんとかなると思っていたようだ。
 
 オヤジさんの家がある立会川の小料理屋で会った。オヤジさんと奥さんの昌子さんと倉田洋子さんという相手と私の4人で4畳半程の個室で話をした。顔立ちの優しそうな小柄な人で髪が長かった。始めの30分ほどはビールが出て、料理の小皿がいくつか並び、オヤジさんと奥さんが洋子さんと私のことを話題にしていた。
 
 そのうち、奥さんが「あなた」というようにオヤジさんの脇腹をつつき、オヤジさんが、おおそうか、と気づいたように立ち上がり「後は若い2人でごゆっくり。勘定は済ませておきます」とドラマのせりふのようなことを奥さんが言って、2人して出ていった。
 
 私はいっぺんに緊張した。黙っていると、洋子さんは私のグラスにビールをそそいだ。仕方なく、それを飲み干した。間がもたないのでタバコを何本か吸った。当時私はショートホープを吸っていた。固い箱に入っているので、作業服のポケットに入れてもつぶれないのだ。
 
 何を話したのか、まったく覚えていない。その日の天候のこととか、あたりさわりの無いことを口数少なく話したと思う。私が黙っていても不思議に彼女は退屈していないようだった。風変わりな小動物を見るような目で私を見ていた。
 
 小1時間ほどして私がトイレに立ち上がり、席に戻って来ると、彼女も立ち上がりコートに手を通した。それで帰ることになった。外はもう暗くなっていた。春先の強い風が吹き募っていて、彼女の長い髪が風にあおられ、そこから若い女の髪の匂いが強く香っていた。並んで立会川の駅まで歩いていった。
 
 若い女と2人連れで歩くようなそんな状況も私にとっては珍しく、緊張は続いていた。券売機の前で立ち止まると、私は、じゃここで、というように軽く会釈した。
 
 そのとき洋子さんは風に乱れる長い髪をかまいもせずに立ち止まってじっと私を見ていた。私は狼狽した。彼女が見ているのを意識したまま振り返らずに切符を買って改札を抜けてそのまま電車に乗った。
 
 しばらくして現場の昼休みに、オヤジさんが先方はこの話を進めてもいいようだと言っている、と私に伝えた。そして彼女の住所と電話番号の書かれた紙を渡した。        
 

 99.3.14

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 あとがき:この自伝シリーズも今回で1周年を迎える。すでに書いてあるものを送っているので、1年は続くと思っていた。ただ毎週メール版に編集し直して、あとがきを書くのが結構大変だった。毎日更新しているHPなどを見ると、その持続力には感服する。

 始めた頃と自分の考えていることが変わって来ている。このHPにリンクの嵐を貼って、自分の過去のエピソードの意味がどんどん変わっていくようなものを夢想していた。RPGゲームみたいなもので、リンク先によって人生が変わっていく。そのアイディアを思いついた時は3時間ほど興奮した。その時の興奮は憶えているが、アイディア自体には今はあまり魅力は感じていない。

 あと4ヶ月分ほどあるので、それまでは週刊体制は維持できる。その後は月2,3回の随時発行となるかもしれない。それはその時決める。読者が0になれば当然やめる。このシリ-ズにおつき合いしていただいてる方には感謝しております。(2001.9.22)