2019-04-01から1ヶ月間の記事一覧

私のバイト時代 (10)

都の清掃局のバイトは年末年始の臨時要員だったので、2週間ほどで終わった。大学の掲示板で探した次のバイトは引っ越しの補助だった。これは運転手と助手2名の3人がチームを組んでやった。 まず運送会社に行き、その日の現場まで車で行く。現場に着くと、…

私のバイト時代 (9)

工場の敷地は広大で全部測量するのに2週間ほどかかった。化学工場は作業員も少なくガランとした印象だった。測量の作業は一般の道路や民家と比べて格段に楽だった。ただ危険な個所が多く、ヘルメットの着用が義務づけられていた。油断していると、すぐわき…

私のバイト時代 (8)  

そして最後に、ポリッシャーを担当した。これが一番楽だった。作業の先頭だから、仕事のペースは自分で決めることができる。はじめは扱いにくかったポリッシャーもしばらくすると片手で操作できるようになった。電源コードをのばして短時間ならリモコンで遠…

私のバイト時代 (7) 

土日の床洗いはウィークディと違ってチームを組んで仕事をした。床洗いは仕事の段取りが決まっている。週に1度、床を石鹸水で洗いワックスをかけて仕上げるのが目的である。 この目的に向けて仕事の各段階が順を追って構成されていた。まず第一に出来るだけ…

私のバイト時代 (6) 

掃除のバイトでは世の中を裏から見ることができた。 月-金の掃き掃除では、退社後の人のいない事務所の中を掃いて回る。机の上を見ただけで、そこを使っている人の様子が分かる。几帳面に片づいた机、書類やその他のものが雑多に積み上げられた机、乱雑な机…

私のバイト時代 (5) 

上野駅キヨスクの売り子は半日やっただけだった。1m四方ほどの大きさの台車に新聞、週刊誌から、コーヒー、ビール、つまみ類など旅行の時に必要な様々なものが詰め込まれている。それをプラットフォームの上を押しながら、客の注文に応えて売るのであった…

私のバイト時代 (4)

高校は住まいのすぐ裏の歩いて5分とかからない工業高校電子科であった。ひと月ほどして学校の様子が分かるとさっそくバイトをさがした。 まず初めに応募したのは石鹸工場の倉庫係だった。近くの工場の塀に応募の張り紙があった。土曜日の午後だけ1度行って…

私のバイト時代 (3) 

この経験から、ラーメン屋の味を知るには、ラーメン、チャーハン、餃子の3点セットを頼めば十分なことがわかった。これ以降今に至るまで、ラーメン屋に行くとこの3点セットを頼み、教員の悲しき性で、汁、麺、具の3項目にわたって5点法で評定を下す、と…

私のバイト時代 (2) 

大番はごく普通の町場のラーメン屋だった。開店は11時、閉店は10時ころで、11時に店を開くためには朝10時頃から準備した。店長は30代の男で奥さんと2人でやっていた。ふたりとも中国人だった。 私の仕事は店内を掃除して、客があればコップに水を…

私のバイト時代 (1) 

浪人時代の次は大学時代に続くことを考えていたが、どうも気分が乗らない。そのうち教員になるまでにアルバイトをかなりやっていたのでそのことが思い浮かんだ。 家族に仕事をいいつかってそのお駄賃をもらうのを含めなければ、私が初めて仕事をして報酬を受…

私の住宅事情 (6) 

娘の産まれた年の夏に引っ越しをした。毎回出していた公団の抽選が当たったのである。倍率は2000倍ほどだった。宝くじを始め様々な抽選ではいつも外れていたから、当選する人がどこかにいるはずだとわかっていても自分とは無関係だと思っていた。住宅公…

私の住宅事情 (5) 

小笠原には3年いた。内地に戻ってくるときに、高校の卒業生と結婚する。私が赴任したとき彼女はすでに卒業していたので、直接教えたことはない。結婚式はしたくない、と妻が言うので届けを役所に出しただけの結婚だった。島にいる妻関係の親戚を集めて妻の…

私の住宅事情 (4) 

大学を卒業した時には27歳になっていた。新採のまともな就職にはつけない。そこで教員になることにした。静岡、神奈川、埼玉と日程が違う関東近辺を受験したが皆落ちた。最後に受けた東京に合格した。東京の問題は範囲が広く、高得点でないと合格しない、…

私の住宅事情 (3) 

高校浪人大学と合わせて12年間東京北区のアパート福寿荘で過ごしたが、この間1年ほど私は家出している。 工業高校を卒業して3年浪人の後入学したのは東京都立大学理学部生物学科であった。受験数学の成績が悪くないので理系を受験しただけで、特に将来展…

私の住宅事情(2)

私が昭和30年代をすごした8畳一間を今風にいうとワンルームということになり、いささか聞こえはいいが、文字通りの一部屋でそこに一家7人の衣食住がすべて詰め込まれていた。寝るときは、父と兄、母と私、姉2人が一つのせんべい布団に並んで寝た。残っ…

私の住宅事情(1)

「半世紀生きた人になっちゃうね」妻が言った。そうなのだ。私は3月3日で50歳になってしまった。まったくだまされたような気がする。気がついたら勝手に向こうから年が寄ってきて、そういうことになってしまったのだ。まあいい、そっちがその気ならこっ…

私の浪人時代Ⅱ(10)

現実的に無駄な11年間と書いたのは、東大を卒業しても、世間でいうような「一流大学を出て大企業に入って裕福な人生を送る」ということとは全く無縁だったからである。 明治生まれの父は千葉県から上京し都の公務員をやめた後、自分で事業を興しそれに失敗…

私の浪人時代Ⅱ(9)

結局願書を出したのは東大理Ⅱだけだった。精神科医への道は入学後の可能性に賭けることにした。基準点は830点前後と予想されていたから、2次試験が受験できるのは確実である。 試験日は3月3日4日で3日は私の31歳の誕生日である。会場は本郷であっ…

私の浪人時代Ⅱ(8)

受験手続きの書類はほとんど予備校のいうとおりにしていればそろったが、調査書だけは出身校へ取りに行った。3浪の時に行ってから10年たっていた。 王子工業高校の校舎は少し改築されていた。事務の窓口で申請書を出した後、職員室に顔を出した。私はすで…

私の浪人時代Ⅱ(7)

10年前の3浪の時と違うのは予備校に負うところが大きい。健康診断から始まって願書の取り寄せ応募の期間、と一つ一つ全部自分で確認しなければならなかったが、そういうことはすべて用意されていた。私はただ言われるままに動いていればいい。 模擬試験も…

私の浪人時代Ⅱ(6)

いつものように「ただいま」といって帰宅すると、妻はやはり黙っていた。どうしたものか、と思ってこちらも黙る。すると「バイトすることにした」と妻は宣言した。清瀬駅南口商店街のはじにある本屋のアルバイトを見つけてきた、と言うのであった。 妻は妻で…

私の浪人時代Ⅱ(5)

予備校の授業は午前中だけ出て、アパートに帰る。昼食を食べて時間があれば昼寝して勤務先に行った。自転車で10分ほどの距離であった。夕食は定時制の給食を食べたから、家で妻の作った食事をするのは休日を除いては昼間だけである。 その後私は12年間こ…

私の浪人時代Ⅱ(4)

なぜ私が13浪を意識したかというと、予備校が始まって一月ほどした頃、3浪以上の受験生が呼び出されたことがある。昼休みに校内放送があり40人ほどの生徒が教室に集められた。現在の体調などを記入する簡単なアンケートが配布された。相談ごとがあれば…

私の浪人時代Ⅱ(3)

朝起きるのは6時半。7時半にはアパートを出た。新築2DKの錦翠苑という焼き肉屋のような名前の203号室である。モルタル2階立てで前の道路が埼玉県との県境であった。ここには1年と3カ月しか住まなかったが、さすが我が人生最良の年である。電話番…

私の浪人時代 Ⅱ(2)

予備校は午前部だったので8時半頃から1時間目が始まった。50分1コマで午前中に4コマある。午後は選択で理科社会の科目になっていた。この1年間力を注いだ科目はまず英語である。英文読解、英作文、文法、総合問題、と受験に必要な項目別に授業があっ…

私の浪人時代 Ⅱ(1)

昭和42年(1967)3月に王子工業高校を卒業して昭和45年(1970)4月に東京都立大学に入学するまでの3年間を私の浪人時代の第一期とすると、第二期は昭和54年(1979)4月から昭和55年(1980)3月までの1年間である。 6年かかって都立大学を卒業した私…

私の浪人時代(資料編)

浪人1年目の長野の学生村で描いたもの。高校時代は漫画家志望。ガロの新人応募向けに作品を描いたが投稿しなかった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━ あとがき:この手の資料がまだまだある。いつかは整理しないといけない、思っているが、まさにこの1年ぐらいがその…

私の浪人時代(21)

仕事もやめ、福寿荘北向きの4畳半に夜いることになると暖房が大変だった。部屋が片づいていれば石油ストーブを入れるのが普通であるが、とてもそんな余地はない。申し訳程度についている流しの脇のガス台でやかんで湯を沸かして暖を取ることにした。 沸いた…

私の浪人時代(20)

生徒にしてみれば、まったくいいことを考えたつもりだった。私は事態がそういう風に進むとは全く考えていなかったので狼狽した。自分の中だけで完結している話のつもりだった。計算してみると君子さんはもう40代の半ばのはずである。私の妻より年上になる…