私の教員時代(12)

 前号から6ヶ月経ってしまった。自伝シリーズは1行も書かけなかった。そして、お約束通りにmagmagから、もうやめたらいかがとメールが来た。前回たくらんでいたような「自分のサイトを見てくれるようなお知らせメールマガジン」を、まぐまぐは認めてないことがわかった。読者の方から励ましのお便りをいただいた。まぐまぐのサイトを見るとまだ151名の方が1年も発行していないこのメルマガを解除もせずに購読予約してくれている。

 前書きはそのくらいにしてともかく続けてみよう。

 教員として始めて父島の桟橋に降り立ったとき、天候は曇りだった。空気が「内地」と違っていた。戦争時代の本土を呼ぶ「内地」という言葉がまだ生きていた。私が赴任した小笠原は日本に返還されてから7年しかたっていなかった。天候は内地とほぼ2月違っていた。3月末に東京の竹芝桟橋を出て着いた時は年度が変わって4月になっていた。すでに梅雨前の湿度の高い気候だった。学校の事務室から迎えが来ていた。運転していたのが塚本(仮名)さんである。宿舎まで送ってもらいながら話をした。彼と私は同じ小学校の卒業だった。この偶然が我々を近づけた。1年後には彼と同じ宿舎で共同生活をすることになる。年は私の方が少し上で小笠原では一番の友人となった。

 車はジープだった都立高校で公用車にジープを持っているのはウチだけだ、と教えてくれた。後ろに赴任職員の荷物を積み、私が入る宿舎まで案内された。

 彼は野望を持って小笠原に来たのだった。それは自分のヨットで世界1周をするという夢だった。塚本さんはヨットを手に入れるのはどうすればいいかを考えた。東京から1000K離れた太平洋上の小笠原諸島は外洋ヨットの航路になっていた。外国から太平洋を渡ってくるヨットも、日本から太平洋に出るヨットもここを通る。それならばここへ来ればなんとかなるのではないか。そう考えて高校を卒業して東京都職員の採用試験を受験し、高校事務職員に成り、その後異動希望かなって小笠原高校の事務員として採用されたのだった。

 ヨットのような金持ちの道楽に庶民が近づくには最良の方法だと思えた。ヨットを所有するには保管場所の港を確保しなくてはならない。車の駐車場と違って結構な額の契約料が毎月かかる。ヨットハーバーといえば大抵が土地の高い保養地、別荘地である。私と同じ庶民である塚本さんは島に住めばこの問題は解決すると思ったという。採用がきまることを事を第一に希望者の少ない離島の僻地が一番採用されやすいと考えた私とは動機が大分違う。私はこの後31歳にして東大を再受験することになる。あるいはこの塚本さんに影響されたのかも知れない。

 案内された宿舎は家族用の宿舎だった。4畳半6畳にDK、風呂トイレのついた1軒屋だがプレハブの簡易宿舎である。公務員住宅で21号棟まであった。私があてがわれたのは6号棟である。となりの7号棟には女子教員が2人、向かいの棟には事務長一家が住んでいた。私の同室者は一緒に赴任した英語の教員である。私より10歳年長で家族を内地に残して1年暮らしてみて、大丈夫なら家族を呼び寄せるつもりだった。モンゴル語科を卒業して教員になった変わり種で一番の知識人だった。やがて彼は「隠居」と呼ばれるようになる。そう言われるのはまんざらでもなさそうで、自分からも、ご隠居と自称していた。教員1年目の私はこの先生から教員社会のことをずいぶん教えてもらった。

 ある時教室の後ろ黒板に生徒の字で意見がましいことが書いてあった。それは学校側に対する生徒の要望のようなことだったと思う。私は立場上これはマズいと思って直ちに消してしまった。するとご隠居は、生徒の書いたものは確認もせずに消さない方がいい、とその場で言った。そういうリベラルなあり方が自然と身に付いた人だった。

 職場だけでなく、「自宅」に帰っても生活が一緒なので教員生活そのものを見せてもらった気がする。現在新任研修と称して採用1年目の教員は1年間職場内外で研修を受け分厚いレポートを提出するようになっている。教員としてのあり方をみっちり学ぶわけである。私は3月末に内地を出てしまったから、初任者研修どころか、今やっている辞令式などという形式張ったことは一切やっていない。きちんとした研修を受けていないので、教員の常識というようなものがあるとすれば、それに私は欠けているのではないか、と思ったこともある。だが、今考え直してみればこれは生活そのものが毎日研修だったわけである。

 たとえばご隠居は分厚い英英辞典を良くひいていた。携帯版でなく重い卓上版である。なるほど英語の教員は単純な動詞でも英英辞典を参照するんだ。講習会形式で講義を聞くのとはとはまた違った勉強ができたのだと思っている。

 荷物は机、スチールの本棚、布団と身の回りのものと本が少しあるだけだった。支庁職員と同じ食堂で夕食を取ると、段ボール箱を開けて本を見ていたら、ノックの音がした。スチールのドアをそのまま叩くのである。何事かと思って出て見ると、塚本さんが立っていた。「これから職員会議をやります」と彼は言った。勤務時間も何もあったものではない。彼についていくと少し離れた職員宿舎に入った。そこも同じ作りでDKのテーブルには麻雀の支度がしてあった。新任者の歓迎会だったのである。一緒に赴任した職員も来ていた。

 そんな風にして離島の教員生活が始まった。

2003.12.31

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 あとがき:延命工作で6ヶ月ぶりに発行しました。前言をひるがえして、またこの形式でしばらく(といっても例のよって6ヶ月先になるかもしれません)続けてみようと思います。