私のバイト時代 (16) 

 このバイトで死にそうになったことが2度ある。一つは下赤塚のボーリング場だった。高さ10mほどの足場で作業していた。ネタをかき混ぜるとき使うトルエンが目に入った。あたりが瞬時に暗くなり激痛が走った。   
 
 何が起こったか分からなかった。ともかくそこから降りなければならない、と考えた。頭は冷静なつもりだった。手探りで足場の上を小走りにはしり、はじまで行って降りた。目が見えないので、適当な見当で動いた。一度途中で足を踏み外した。足が宙に浮いたが手は足場を握っていたので落下しなかった。
 
 その後はなんとか下まで降りられた。地面につくと薄目を開けて水道の蛇口のあるところまで行き、大量の水で目を流した。しばらくうずくまっていたら、おさまってきた。そこから作業していたところを見るとはるか遠方の高いところにあった。どうしてそこまでこられたか全く分からなかった。
 
 30分ほど休んで、大丈夫のようなので、仕事を続けた。特に後遺症はなかったが、それ以降、疲れると視界に糸くずのようなものがもやもや浮かぶ。きっとそのときに角膜を傷つけたのだと思う。日常生活にさして支障はない。
 
 もう一つは青山ビルである。この大きい現場は冬の3ヶ月ほどやった。冷たい北風の吹く中でゴンドラに乗って作業する。このゴンドラは2本のワイヤーで屋上からつり下がっている。ワイヤーの末端は屋上の丸管にU字形の金具で取り付ける。
 
 この作業は必ずゴンドラに乗る人間が自分で取り付ける。落ちたら自分が悪い、というわけだ。長期の現場なので、気が緩んだ。ある朝行ってみると、いつものようにゴンドラが吊ってあった。その期間毎日乗っているものだった。本来は自分で屋上まで行って丸管のところを確認しなくてはならない。
 
 だが、工事中だからエレベーターは当然作動していない。20数階を歩いて登るのだ。昨日と同じだと思って、そのまま材料を積み安全ロープをつけて、上昇のスイッチを入れた。
 
 2m程あがったところで衝撃が来てゴンドラが落ちた。安全ロープは腰のベルトで支えられている。腰のところで宙ずりになった。高さはそれほどではない。落ちたゴンドラの手すりがすぐ足下にあった。そこに乗って安全ロープをはずして降りた。
 
 降りた後で足下が震え動悸が激しくなった。息も荒い。本来なら現場事務所に報告するのだが、自分の落ち度である。私は黙っていた。しばらく呼吸を整えて屋上に行った。丸管は確かについていたがワイヤーが鉄骨に引っかかっていて、それが外れたんだと分かった。早く外れたから2m程の上昇ですんだものの、外れるのが遅かったらもっと上昇してから落ちた事になる。危ないところだった。
 
 一番暑かったのは埼玉県熊谷のスーパーマーケットの工事だった。確か7月の終わりで38度あった。もちろん冷房などない。汗が際限なく出て午後になるとぐったりしてきた。3時の休みにコーラを1リットル一気飲みした。あまり暑いと惰性で体が動くだけで何をしているのかよくわからなくなる間違いなく熱中症である。当時は私は熱中症という言葉をしらなかった。日射病なら知っていた。日陰で作業していたので、日射病ではない、と思っていた。よく事故を起こさなかったものだ。
 
 寒かったのは立川の米軍基地でこれは12月の暮れだった。午後から天候が怪しくなりみぞれ混じりの小雪が降って来た。始めから降っていれば仕事はない。この日は途中からなので、キリのいいところまでやってしまおうと思ったのである。
 
 格納庫の入り口のひさしの上の部分でそこに冷たい北風が吹き付けてきた。気温はー1度位だろうがこの強風で体感温度はもっと低いと思われた。軍手をしていたが、すぐに手がかじかんで動かなくなった。結局仕事を終わらせることなく、中断した。
 
 99.3.7

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 あとがき:私の20代の記憶はこの現場作業に関することが多い。屋外の記憶である。ひとりで作業していたから、人間に関する事は少ない。透明なガラスの質感やサッシの手触り、高所の風や大気の温度、そこから見える眺望、空の様子、ざらざらした現場の床。工事場所が窓なので、そこが終わらないと室内は外界と遮断されない。建物の中をやる時も外にいるのと同じ事である。吹きっさらしの都会で外気にさらされていたことになる。

 現場に動植物はいないから、私の四季感覚は無機物が中心となる。3年ほど前から俳句に興味を持って少し試みたが、日本の四季に関する季語のほとんどは字面がわかるだけで実感できないものだった。生物教員をやっていながら花の名前にはまったく関心がない。都会の建造物はコンクリートが多い。成分的には砂漠と大変似ている。東京砂漠などと言う言葉から私が連想するのは、希薄な人間関係といったことではなく、東京は鉱物でできているという感覚である。(2001.9.8)