私の教員時代(13)

 離島の朝は早い。父島北緯27度5分。東京より緯度にしてほぼ9度南方になる。初日の出が日本で一番早いのは小笠原である。TV中継などでご覧になった方があるかも知れない。TVの中継は1日だけだが、住んでいる人間にとって1年中朝は早い。

 4時を過ぎると明るくなっている。大体着の身着のままで寝ている。白の短パンにTシャツという夏スタイルで起きる。そのまま着替えず1日過ごす。食事は支庁の食堂に行く。朝昼晩3食そこで食べる。メニューは選べない。給食である。食費は天引きだからなんだか出来ているものをかってに食べている、という感じだった。顔が知れているので食券など必要ないのだった。

 そういえば、戸締まりはしたことがない。いわば全部身内の世の中だった。当時父島の人口が2000人ほど、大規模校の生徒数ほどだ。島中が一つの会社の社内と考えらる。電話番号は3桁の数字だけで局番というものがない。内線電話と同じであった。私が3年過ごして大きな犯罪は1件だけ。台風で避難してきた漁船員同士のケンカで前科13犯が14犯を刺したという事件だった。島の警察には留置所がない。容疑者は大きな犬を入れる檻に入れられ、船が来るまで留置された。

 その船便は月に3度、島に必要な人、モノをすべて運んでいた。昼過ぎに港に着く。湾の入り口で霧笛をならす。すると島の人口の1割ほどが船着き場に集まった。まず人の出迎え。その人が持ち込んだ荷物の受け取り。船内チッキはそこで直に受け取るのだ。島中の郵便物、ほぼ10日分の生活物資すべてが次々荷揚げされた。 

 学校は公務員住宅の裏手の夜明け山中腹にあった。教室の窓から小さく港が見渡せた。午後の授業をやっていると、霧笛がなる。すると生徒たちは船が着いた、と顔を見合わせた。私も窓のそばに行って眼で確かめた。たとえば香川知子の手紙はその船便で着くのだった。郵便物は1度郵便局に運ばれて仕分けされ夕方には学校についた。宿舎には配送されなかった。

 授業が終わると車で生協に行く。スーパーマーケット形式の大きな店舗は島内で2つしかなかった。生協とマルヒである。船のついた日は客でごったがえした。新聞雑誌、10日分がかたまってやってきた。新聞は新しい順に上から束ねてあった。事件を結果から読むのである。主婦は10日分の食料を買い込んだ。だから内地の家庭では見られない業務用の大きな冷凍庫がどこの家にもあった。
 
 大洋の孤島、国立公園指定、自然の楽園などと聞くと食料は生のものが豊富に入手できるように思いがちだ。そんなことはない。食材の基本はすべて冷凍であった。確かにバナナ、パパイヤは窓から手を伸ばすと取れた。夕方港で小さなアジを釣って揚げて食べたことはある。狩猟採集はそれぐらいのもので、主食は冷凍、それも内地物だった。

 それら物資は車で運ぶから、車は必需品だった。冷凍庫、車、白いペンキで塗った家。米軍キャンプのような生活様式である。小笠原が日本に返還されてまだ7年しかたっていなかった。米軍は南に200k行った硫黄島にいて、父島にはいなかった。自衛隊の父島分遣隊が在駐していた。だがその建物はアメリカ軍のカマボコハウスを使っていた。 

2004.6.30

━━━━━━━━━━━
 また半年放置した。しかし書き始めてみるとまだまだ書くことはある。最近はますます多忙になってきて精神的な余裕がまるでない。久しぶりに思い出してみると、懐かしくもセンチメンタルで現在の気持ちの枯渇ぶりが良くわかった。私の教員生活も残すところあとわずかである。そこから振り返れば教員はじめの離島生活もまた違って見えてくる。と同時に当時の気持ちも確かに私の中にあって、なかなか微妙な感じだ。思い出を元に書いているのあえて事実関係は確認しなかった。記憶と事実は違う。このシリーズは、私がこう思っている、という報告で当時の小笠原の記録資料ではありません。