私のバイト時代 (5) 

 上野駅キヨスクの売り子は半日やっただけだった。1m四方ほどの大きさの台車に新聞、週刊誌から、コーヒー、ビール、つまみ類など旅行の時に必要な様々なものが詰め込まれている。それをプラットフォームの上を押しながら、客の注文に応えて売るのであった。
 
 確か大変暑い日だったと記憶している。あたりは乗客でごったがえっていて、発車のベルや、案内のアナウンスやそこら中から音がウワンウワン鳴り響いていた。乗り込む直前に買うのか、客は大抵殺気だっていた。初日に何の準備もなくそういう中に放り出されてわけがわからなかった。
 
 品物の値段をまず覚えていなければならない。おつりも迅速に渡す必要があった。ぐずぐずしていると、もういい、といわれてせっかく出した品物をたたき返されたりした。品物と値段表は小さな画板に張ってあったが、とてもそれを見る余裕はなかった。
 
 そのうち私はくらくらしてきた。自分のいるところが深い谷底の一番下で周りはすり鉢上になって上の方にせり上がって見えた。そうして、あれほどうるさかったあたりが妙に静かになった気がした。気がつくと汗をかいて座り込んでいた。ああ、なんか自分は変に疲れているなと思った。自分は冷静なんだ、とも思った。
 
 なんとか立ち上がって事務所の方へ台車を押しながらのろのろ歩いていった。プラットフォームが異様に広くどこまでいっても終わらないようだった。それでもやがて事務所がやってきた。そのところでまたしゃがんで、はあはあしていた。その後はよく覚えていない。
 
 結局、気分が悪いのでほとんど仕事にならず事務所で休んで帰ってきたように思う。給料はもちろんもらった記憶はない。あの暑さを考えると丁度夏休みに入った頃だったと思う。
 
 それで高1の夏休みはそれ以上バイトはやらなかった。他にすることもなく少年サンデーのおそ松くんを読んで一夏過ごした。宿題の国語の感想文にそのことを書いて提出した。
 
 9月に入って始めたのは、この後大学に入るまで続くことになるビル掃除だった。新聞の求人欄で見つけた。会社が終わった後の5時半から9時までが勤務時間で、掃除会社の名前はオール商会といった。工業高校の1年G組の友人2人と一緒に申し込んだ。履歴書を書いて会社に持っていった。少し話をして採用になった。
 
 学校の授業が終わって4時頃に校門を出て歩いて王子駅まで15分ほどかかる。それから国電に乗って東京駅まで行く。掃除をするビルは八重洲口から歩いて10分ほどの明治製菓のビルだった。
 
 地下のロッカーの並んでいる影の奥まった所に一畳ほどのゴザが敷いてあった。そこで作業服に着替えて自在ぼうきとちりとり、ゴミを入れる車輪付きの袋を押してエレベーターに乗る。これは30年も前の話であるが、この道具は現在もそのままほとんど同じ形のものが改善もされずに使われている。
 
 仕事は事務所のくずかごのゴミを収集して床をほうきで掃くことだった。それを上から下までやると、つぎはトイレのゴミを集めて、洗面所を掃除する。仕事は大体9時前に終わる量だった。着替える場所にはタイムレコーダーがあって来たときと帰るときに自分のカードを入れるとその時刻が刻印された。
 
 私の当時の住まいは高校のすぐそばだったので、そこから来るときとは逆の道順で家に帰ると10時をすぎる。12時前には寝て翌日は7時過ぎに起きて学校へ行った。毎日がその繰り返しだった。土曜日は会社が半日で終わる。そこで土日は床に石鹸水をまいてポリシャーをかける大掃除をした。そしてまた次の1週間がその繰り返しだった。      
 
 98.7.16

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 あとがき:この明治製菓と通りを隔てて東洋インキのビルがあった。私たちの世代では有名な吉本隆明東工大を卒業して就職したのが東洋インキである。ただそれだけのことであるが変に記憶に残っている。私は下町でもなく山の手でもない北区は滝野川の育ち。商店街は十条、盛り場は赤羽、少し高級だと思っていたのは、東洋一の売り場面積を誇る西武があった池袋である。

 こうした場末から見ると、さすがに東京駅は日本の中心であった。八重洲南口の改札を出ると通路が清潔で広々としているように思えた。レンガ作りの駅舎もモダンである。勤め人は丸の内のサラリーマンだ。田舎から出てきたお上りさんのような気がした。その前に1日だけ勤めたところが上野だから知らないうちに比較していてそう感じたのかも知れない。上野はそういうモダンな雰囲気はしなかった。 (2001.6.23)