私の住宅事情 (6) 

 娘の産まれた年の夏に引っ越しをした。毎回出していた公団の抽選が当たったのである。倍率は2000倍ほどだった。宝くじを始め様々な抽選ではいつも外れていたから、当選する人がどこかにいるはずだとわかっていても自分とは無関係だと思っていた。住宅公団の抽選は10回外れると当選率が高くなるやり方だった。外れハガキを集めるつもりで応募したのが当選したのである。
 
 「ちゃんと自分の育つ場所を作ったんだ」と妻は言った。娘が当選させたような口振りである。これ以後こんな僥倖はめぐってこない。私はここで一生分の運を使い果たしたのであろう。もっとも、全くそういうことがない人もいるはずだから、1度当たっただけでも上出来といえる。
 
 動物のことを考えてみる。脊椎動物の鳥類哺乳類の場合、巣(家)とは子どもを育てるためのもので、親のためのものではない。ヒトは哺乳類の中でも成熟期間がきわめて長く、子どもが成長する環境として住まいの条件を考えるのが第一である。そう意識したわけではないが、この基本は私の住宅事情にも保持された。
 
 引っ越し先は昭和30年代建設の団地で当時は文化住宅などと呼ばれ、換気扇が付いているとか風呂場があるとか、最先端の居住環境を誇っていた。だが20数年もたつとさすがに狭かった。物質的な経済繁栄に居住空間が追いつかなかったのである。
 
 私が当選したのはテラスハウスで、2階建てのユニットが5軒続いている長屋のような棟だった。小さな庭が各所帯にあり、半間とはいえ玄関もついていた。下が4畳半と1畳半ほどの台所、上が3畳と6畳の3Kだった。3畳を私の書斎にして、6畳が寝室と娘の机、下の4畳半は居間になった。庭には物置とバイクと自転車を置いたらそれでもう一杯になる。
 
 団地内の道路は舗装されていないところも多く、降雪があると純白の絨毯を敷きつめたようだった。きれいなのは良かったが靴底にはぬれた泥が積み上がる。各棟の間隔が広く緑害といわれるほど樹木が多かった。
 
 ここで娘は幼稚園小学校中学校と子供時代のほとんどを過ごした。すべて公立で安上がりに済んだ。自然に囲まれたいい環境だったとは思う。窓は木枠にパテでガラスが押さえてあり、木のやさしい感じがして悪くなかったが、冬寒く夏暑い。冷暖房は石油ストーブとホットカーペット、後は自然の風を入れるだけだった。
 
 電力の許容量が小さく、配線し直さないと熱交換の電気用品はすぐに限界が来るのである。建設当初電気釜は想定しても、クーラーを初めとして様々な家電用品がこれほど増えるとは予定外のことだったろう。
 
 私にしても、ここに住んでいたときだけ本を買い込んで本棚を一杯にすることができた。通勤通学には少し不便だった。夜間高校で勤務を終えるともうバスがない。初めて新車を購入した。しかし日中は渋滞で時間がかかる。休日に買い物に行くと駐車場に入れない。便利なのは荷物を運ぶことぐらいである。月々の駐車場料金、車検代と費用がかさみ、手放すことになる。代わりにバイクで移動した。暖かい時季は風を受けて心地良かったが、寒くなりそれも深夜になって雨が降っていたりするとなかなか辛いものがあった。
 
 家賃は徐々に上がったが、5万円台で場所と居住条件を考えると優遇されていた。私は相変わらず昼夜、大学と勤務先を独楽鼠のように往復していた。妻は「母子家庭だから、、」となかば諦めていた。子育ての傍ら、結婚前の夢だった少女マンガ家を目指し、投稿入選した。2作ほど商業誌に掲載される。その後アニメの彩色の仕事を移った。これはテレビで放映された。セル画に色を埋めていく内職作業である。
 
 親がそれぞれ自分のことをやっていたので、娘は勝手に育ったようなものである。小学校の時は、下駄箱が倒れてきて顔に餅焼き網のようなあとがついたり、追いかけられて交通事故にあったりしていたが、「いじめは学校生活のスパイスだ」などとうそぶく不適な輩となった。見上げたもので、私に不満はない。
 
 この団地にいつまでも住んでいたかった。だが老朽化が進み建て替えることになった。バブル経済最盛期の頃で、建て替え後の最終家賃は3倍以上になる。引っ越すことを検討したが、娘は中学を途中で転校したくないと言う。
 中学生の娘の机をいつまでも寝室に置いておくわけにもいかない。妻のアルバイトが家計の助けに少しはなるが、基本は私一人の教員給料だから、とても近くに家を買う余裕はない。
 
 そもそも私も妻もずっと間借り生活をしてきたので、自分の家を持つということがどういうことだか実感としてわからない。高家賃を覚悟で新築の団地に住むことになるんだと思っていた。それがひょんなことから中古の物件を購入することになった。それが現在の住まいである。私に持ち家の感慨はない。引っ越して来た当時は軒と軒が隣り合う息苦しさに庭と呼べる空間のあった公団のテラスハウスが懐かしかった。
 
  すずらんの華やぎもある狭き庭

 

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2000.2

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 あとがき:この団地に13年間住んだことになる。新築のアパートから引っ越す時に年下の同級生に手伝ってもらった。鹿児島ラサール高校の卒業生で一人は医学科で少林寺拳法部の部長、もう一人は前衛パンクロックをやっていた。お二人ともひとかどの人物である。将来を嘱望されたエリートだが、私は年長の勤め人である。団地に荷物を入れて一段落ついたところで、引っ越しバイト相場の8割ほどを包んだ。二人は中身も確かめず受けとって、帰っていった。しばらくすると、決まり悪そうに戻ってきて少林寺拳法部長が**さんこれはいただけません、と返しに来た。私の方が恥ずかしかった。
 彼らは同じクラスの友人として手伝ってくれたので、バイト料目当てでないと言いたかったんだと思う。失礼な事をした。パンクロッカーはその後大学院まで進み今は有名校の大学教授である。もう一人は音信不通になってしまったが、きっと大病院の院長でもしているんだと思う。統率力、判断力に秀でていた。高偏差値の大学生はみな苦労知らずの坊ちゃんばかりではない。自分の立場をわきまえたまっとうな学生もいたことを示しておきたい。
 これで住宅事情シリーズは終わる。現在の住まいに関してはまたいずれ触れる時が来るかも知れない。次回からは私のバイト歴の報告となります。(2001.5.19)