私のバイト時代 (3) 

 この経験から、ラーメン屋の味を知るには、ラーメン、チャーハン、餃子の3点セットを頼めば十分なことがわかった。これ以降今に至るまで、ラーメン屋に行くとこの3点セットを頼み、教員の悲しき性で、汁、麺、具の3項目にわたって5点法で評定を下す、という日々が始まるのであった。
 
 また大番では皿洗いもやった。麺をゆでた残りの湯を取って置き、この中に下げた器を入れた。日本そば屋では「そば湯」に使う液である。この中につけておくと油分が良く落ちる。しばらく入れておいてスポンジで汚れを取り除き熱い湯で流し乾燥の後しまえばよい。廃物利用といえる。
 
 注文を記録するノートも素朴だった。B5版のノートを横にして、右から縦書きにして使っていた。鉛筆はBか2Bの濃いもので上から、時間(出前を受けたとき)、品物名、注文数、値段を記入した。料金を受け取ると値段の上に赤鉛筆で「代すみ」と上書きした。
 
 現金は上が開く小さな金庫に入れた。領収書が必要になると文具店で売っている一番安い領収書に必要最低限のことを書きはんこを押して渡した。日付の変わるごとにページをかえて第1行から記入する事になっていた。このノートはすぐに厨房の湿気と油でよれよれになる。太い柔らかいBの鉛筆でなければ書けないわけだ。
 
 1日の仕事の終わった後、このノートと小さな金庫を前に店主の奥さんが別の手帳のような小さな帳面にそろばん片手に会計計算をしていた。年末は私が冬休みであり、店は忙しいので閉店までバイトをした。その時厨房の奥の小部屋でちゃぶ台の上で作業するのを見たことがある。
 
 このバイトで思ったことは、サービス業は見たところ楽そうでも人が休む時間に仕事をするので世間一般の暮らしはできない、ということだった。
 
 食事時間ひとつを取っても普通の人の食事時間が正に仕事の時間だから不規則にならざると得ない。空いた時間に店の隅でこそこそすばやく終えるのである。夕食後の時間はもちろん仕事の時間である。TVなど見る時間はないはずだ。
 
 よく店の中にテレビが置いてあり野球中継などやっている。あれは客のためでもあるが店員のためのものでもある。仕事の合間に見るのだが、客が来てチャンネルを変えてしまえばそれまで、である。私は大晦日に元旦の1時過ぎまでバイトをしていたが、レコード大賞紅白歌合戦も見られない(当時、これは国民番組であった。冬休み明けには当然学校の話題になる)。
 
 私はラジオ工作好きの変わり者だったので、そういうことは苦にならなかった。野球にも特別関心がなければみんなが見る歌謡番組を特に見たいとも思わなかった。むしろバイトしていて見られなかった、という言い訳ができて気分的には楽であった。
 
 このころ夢中になっていた番組は6チャンネル水曜夜9時からやっていた「ミステリーゾーン」で、今では原題の「トワィライト・ゾーン」の名前でリメイク版や当時のものが出ている。スピルバーグが熱中していたというエミー授賞のSF番組である。ロッド・サーリングが紹介役で脚も書いていた。
 
 1週間はその日、その時間のためにあるようなものでその時だけは必ず帰宅し買って間もないTVの前に座ることにしていた。あんなにドキドキと、ある時間を待ち望む、ということは人生のなかでそう何度もあることではない。
 
 そのことを考えると、八畳一間に7人の家族が蟄居して学校とバイトで自分の時間も自分の場所もないような中学時代と思っていたが、1週間のうちに期待と興奮に充ちた輝く時間を持っていたという点では今よりはるかに幸せだった。
 
 中学時代はこのラーメン屋の仕事が唯一のバイトだった。
 
 98.5.18

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 あとがき:私が入学した中学校は墓地の敷地を少し削って建てた学校であった。私は開校後3年目に入学した第3期生で、私が入学した時に全学年がそろったことになる。戦後のベビーブーム最後の世代である。私の世代が歳を取っていくにつれて、社会が変わっていった感じがする。中学校も新設なら高校も増設、大学は入学難で就職は大量の新規採用だった。たとえば中学に入ったら、「いつ漫画は卒業するんだ」と姉に言われた記憶がある。私もいつかは漫画は卒業するものだと思っていた。私に関してはその時期はまだやって来ない。今日も手塚治虫原作の「メトロポリス」を見てきたところである。小学校の頃なじんだキャラクターが精緻に描き込まれた背景の中で動き回るのを見た。ジャズを基本にした音楽と相まって懐つかしいことしきりであった。(2001.6.9 )