私の大学時代(1)

 私は昭和45年(1970)東京都立大学理学部生物学科に入学した。都立王子工業高校電子科を卒業して3年浪人した後である。学生番号は54013で始めの5は「昭和45年入学」次の4は「理学部」そして13はおそらく理学部内のアイウエオ順の番号である。都立大学は1991年に現在の京王線南大沢にある新校舎に移転した。私が入学したのは、渋谷から東急東横線で5つ目の都立大学駅から歩いて10分ほどの旧校舎である。今は取り壊されて現存しない。
 
 合格した時はほっとしたが、私はすぐに鬱になった。浪人の時は受験に合格することだけを考えていれば良かったが、いざ入ってみると何をして良いか全く分からなかった。受験の偏差値と学費の安さで選んだ学部なので、生物学をやりたかったわけではない。
 
 入学後の新入生の集まりで、自己紹介のようなことをした。目黒校舎の3階の生物実験の準備室に学生のロッカーがあり、そこがたまり場になっていた。3浪は勿論私一人で浪人も1浪が4人ほどで残りの10名ばかりが現役であった。
 
 その現役の中で、双葉を卒業した女子学生は「私は膜のことをやりたい」と自己紹介した。専攻分野まで決めていたのだ。生物は私にとって点数の取れる受験科目というにすぎず、細胞やDNAといった用語は符丁のようなものだった。解答として合っているか間違っているか、だけが主要な関心事であり、当然そういう言葉に現実感はなかった。
 
 「膜」といわれても何のことだかまったくわからなかった。私は現在生物教員をやっているから、今なら膜が細胞膜を初めてとして生体膜を意味しており、その微細構造が細胞の機能にとって大変重要なことぐらいは知っている。
 
 そもそも工業高校時代は授業に生物がなかった。工業高校なので理科の科目は物理Bと化学Aであった。物理は教師の説明がうまく、またラジオ工作が好きだったので得意科目だった。化学の担当は、私の嫌いな教頭だったので、全く分からなかった。頭ごなしに覚えるのが苦手な私はすべてを暗記で片付けようとするその教頭の教え方が不満だった。
 
 高校の化学は下手な教え方をすれば、元素記号やカタカナの長い名前を覚えるだけの暗記科目となる。なんでそういう呼び方をするのか説明されないから、へ理屈ばかりこね回している私の頭に入ってこなかった。唯一赤点を取ったのはこの科目だけである。
 
 同じように暗記科目である社会が大嫌いなので、大学受験をしようとすれば理科系にならざるを得ない。経済的な問題から国公立しか受験できないので、理科は2科目選択しなければならない。そこでしかたなく、英進予備校で生物の単科講座を取り問題集をしゃにむに頭から丸写しして覚える、という暴挙に出たのである。
 
 3浪するまでは理学部の数学科ばかり受けていたが、これ以上浪人できないことになり、当時は一番偏差値の低かった生物学科に、物理・生物という選択科目で受験したのであった。
 
 「膜をやりたい」といった女子学生は双葉というだけあって、私とは住んでいる世界の違うお嬢さんに思えた。彼女以外の新入生も表情明るく、サークルがしたいだの大学院まで進むだの皆希望にあふれているように思えた。
 
 私の番が来たとき出身校と3浪したことだけを言葉少なく話して自己紹介とした。私だけが暗かった。一通り自己紹介が終わった後で、それじゃ、というようにうつむいて私だけその部屋を後にした。外へ出ればクラブの勧誘や新しい学生生活をいかに有意義に過ごすか、といったビラや縦看がそこいら中に花開いていた。
 
 3年前に実習助手をしていたとき、受験雑誌の表紙にあった憧れのキャンパスが広がっていた。その中で鬱屈した私の気分に合ったのは、学生運動のビラくらいであった。
 
 99.4.2

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 あとがき:遠く離れて大学時代を振り返ってみても、それが今の自分とそれほど離れていると思えない。30年たったが結局同じことだとつぶやいている。昔のことに拘泥してばからしいことである。もうどうでもいいことなのは確かだが、他に大したことも思いつかない。あと一仕事しておさらばするつもりである。このシリーズもその一仕事に含まれている。どなたがお読みになっているかわからない。今しばらくおつき合い願えれば幸いである。(2001.10.6)