2019-05-01から1ヶ月間の記事一覧

私の大学時代(21)

1973年の日記の引用をもう少し続ける。 2時から5時までヒマになった。都立大学駅周辺をウロついた。はじめて歩く道が多かった。民族品を扱っている民家があった。1時間少し歩き回っていると、クタクタになった。ラーメンを食べた。ここの女の子はちょ…

私の大学時代(20)

10月1日。夢。工事している。そこは学校なのだった。セーラー服をきたF洋美がいる。おまえ何年だ?3年。中学3年か。S照子もいた。さめてくる。 あいつら22か。そんなことを思いなおしている。 FさんもSさんも中学時代のクラブの後輩である。私が…

私の大学時代(19)

私はその転機の時、自分に関するある発見をしたと思い日記に書き記した記憶がある。そこを引用したくなったので、当時の日記を押入から引っ張り出した。大学ノートに黒いインクで書き込まれた日記のその筒所を探していくうちに読むのをやめられなくなった。…

私の大学時代(18)

小笠原に行ってからのことは機会があれば「私の教員時代」にでも書いてみたい。そうやって私は東京都の教員になった。大学6年間は社会に出るための準備期間だった。 前半はバイトばかりしていた。後半もバイトしながら必要な講義だけ出席した。とても真面目…

私の大学時代(17)

予想通りの質問で一安心すると、不得意なことは何か?と聞かれた。意地の悪い質問である。得意なことを聞かれたのなら返事のしようがあるが、出来ないことを答えるのである。私は、注意するのが苦手です、と答えた。 すると右はじにいた年輩の男のめがねがキ…

私の大学時代(16)

タクシーから降りる時に「ほら、**さんしっかりしなさいよ」と酔っている私を車から運び出した。なんだか世話女房みたいである。彼女も酔っていたのかもしれない。私はタクシー代も払わなかった。彼女はまた車に乗り込むとそのまま帰った。 それ以降その人…

私の大学時代(15)

翌年にTさんから年賀状をもらった。静岡の教員採用試験に合格して中学校の数学の教員になるという。私は不合格だった。私が受かっていれば静岡の教員になり、もしかすると彼女と同じ職場になり、「あ偶然ですね」とか始めの挨拶の言葉まで準備する白昼夢の…

私の大学時代(14)

体を壊して現場仕事をやめた後始めた教育関係のバイトがまずまず好調だったので、教員になることを思い立った。ところが自分は教員になどなれるわけがない、と思っていたので、教員免許に必要な講義をとっていなかった。 特にその気がなくても教職課程はとっ…

私の大学時代(13)

そんな風にバイトを現場の仕事から家庭教師関係に変えて大学に通った。生物学科は理系だから午後はほとんど実験だった。出席してレポートを出さないと成績がつかない。成績がつかないと単位が出ない。いつまでたっても卒業できない。 学生運動に少し顔を出し…

私の大学時代(12)

小学生相手の勉強合宿の講師は、なかなか面白かった。休み時間に子供らを相手に遊んでいると男の子は首にしがみついてきた。上級生の女の子はもう十分女性でそういうふざけっこを少し離れて冷ややかに見ている。先生と呼ばれるのに少し違和感を感じたが、相…

私の大学時代(11)

大学に入学して2年の内に両親が亡くなり、バイトに明け暮れた後2年落第して、一度はやめることも考えた。先に当てがあるわけでもない。工事現場で腰を痛めたのを機にその仕事をやめ、家庭教師関係のバイトでなんとか食いつないで6年かけて卒業した。 大学…

私の大学時代(10)

母の死因は窒息死だと思われた。姉が用意したおにぎりを喉に詰まらせたのだろう。体力の弱っていた母はしらすやちぎったほうれん草の入った栄養のある冷えた握り飯を嚥下できなかったのだ。 第一発見者は私である。長い間、私は母の死んでいた部屋の印象をな…

私の大学時代(9)

母が死んだのは父の亡くなった3月ほど後だった。母は私が小学校3年生の時、私が出演した学芸会の劇を見るために外出して以来、家から出なかた。だから晩年12年ほどは寝たきりで過ごしたことになる。 診断名は更年期障害というものだった。コウネンキショ…

私の大学時代(8)

私は病室の掛け時計を見て時刻を確認した。医者はいつ宣言しようかとその時期を見計らっていたようだった。2番目の姉がわっと布団の足元にすがりついて「お父さん!」と言った。まるで安手のドラマみたいだ、と思った。 それから父の入れ歯を外すことになっ…

私の大学時代(7)

成績のことを書いたらもう大学時代が終わった気分になってしまった。以下、時間にそっていくことはやめて、思いつくエピソードを述べてみたい。 大学時代に両親が亡くなった。授業に出ることをやめて、バイトばかりしていた時期に家を出た。家といっても4畳…

私の大学時代(6)

そして残りの専門課程も3年かかったから結局6年かけて卒業したことになる。これに浪人3年が加わるから人より5年遅くなり卒業したときは27歳になっていた。 まともな民間の就職は無理である。バイトに明け暮れて、ひそかに作家になりたいなどと思ってい…

私の大学時代(5)

大学に集合して各集会場に行くときは、中庭で決起集会を開いた後で、通用門から道路に出た。その時のことである。先頭の旗持ちが通りがかりの八百屋の軽トラックを止めた。運転手は仕方なく車を静止させたものの顔をしかめて露骨に嫌な表情をした。 「急いで…

私の大学時代(4)

逮捕者の出たのは6・15の樺美智子追悼集会で、これは日比谷の野音が集合場所だった。日比谷公園の緑が強く匂っていた。梅雨空から小糠雨が降りしきっていた。 私は都立大学の隊列の中にいた。隣には化学科のHという新入生がいた。特に政治的な主張もなく…

私の大学時代(3)

学生運動のビラには、現在の政治状況、それに反対するための集会の日時と場所が記載されていた。私が多く参加したのは全学共闘会議、略して全共闘の集会だった。共闘、というとおり政治的な主張は違うが、共通項があれば共に行動しよう、というのが趣旨だっ…

私の大学時代(2)

都立大学の入学式は全共闘に「粉砕」された。3年浪人して入学はしたものの、同級生とは話が合わなかった私はどうも場違いなところに入ってしまったようだ、と思いつつ入学式に出席した。学長の祝辞を聞いて事務連絡があるだけの式だった。高校のように一人…

私の大学時代(1)

私は昭和45年(1970)東京都立大学理学部生物学科に入学した。都立王子工業高校電子科を卒業して3年浪人した後である。学生番号は54013で始めの5は「昭和45年入学」次の4は「理学部」そして13はおそらく理学部内のアイウエオ順の番号であ…

私のバイト時代 (19)

私は相手が若い女ということだけでも強く惹かれていたが、その上私の事を悪く思っていないらしい、ということで逆上した。そしてこんな状態ではとてもつき合う事などできない、と考えて断りの手紙を書いた。 自分はまだ学生で定収入もなくとても結婚できる身…

私のバイト時代 (18) 

生涯たった一度だけ見合いをしたことがある。それはオヤジさんの紹介だった。「君は良く工夫している」とオヤジさんは私をかっているようだった。仕事をするにも、最後の結果を考えて段取りを考えてている、というのである。 教えられた通りにやっていても充…

私のバイト時代 (17) 

原宿のマンションの補修工事の時はわびしい思いをした。12月のクリスマスの時だった。外壁の工事で家の中はいつもどおり人が住んでいた。冬の夕暮れで分厚い黒い雲が空を覆っていた。風は無かったが気温が低かった。 私は屋上から椅子の形をした一人用のゴ…

私のバイト時代 (16) 

このバイトで死にそうになったことが2度ある。一つは下赤塚のボーリング場だった。高さ10mほどの足場で作業していた。ネタをかき混ぜるとき使うトルエンが目に入った。あたりが瞬時に暗くなり激痛が走った。 何が起こったか分からなかった。ともかくそこ…

私のバイト時代 (15) 

このバイトを結局4年近くやった。それだけ長く続いたのは、全く一人で全行程を出来たからだと思う。朝8時に現場に入って、工事中の屋内で着替えて黙々と作業する。10時になったら休憩20分、12時まで仕事をして、昼休み1時間。午後の1時作業を再開…

私のバイト時代 (14)

戦後は進駐軍のベースキャンプでペンキを塗ることから始めたらしい。「アメちゃんは白いペンキが好きで必ず年に一回は塗り替える」とか「クロちゃんはすごい。ションベンなんか台所の流しで平気でする」とか当時の経験談を語っていた。クロちゃんとは黒人兵…

私のバイト時代 (13)

ルーマニアではゴキブリのことをグンダークというらしい。いかにも進駐軍相手に覚えたといった感じの英語でルーマニアの言葉はグンダークだけである。「ゴキブリはもう出ない。6ヶ月は保証する」という意味であろう片足の説得は相手に有無を言わさない迫力…

私のバイト時代 (12)

経営者は50代の小男で片足がなかった。太平洋戦争でなくしたと言っていた。杖をついて体を揺らして歩いた。仕事先にはこの「片足」と同じ都立大学の男子学生と私の3人で行った。 車はライトバンで後ろに薬品や散布器やその他の器具を積み込み、前に我々が…

私のバイト時代 (11)

集合時間は冬の早い落日がすぎた夕方であたりは暗くなっていた。場所は 竹芝桟橋の近くの公園だったと思う。そこにマイクロバスが着いた。運転手が降りてきて、競輪の仕事に行く人は集まってくれ、と言った。公園の中にばらばらにいた男たちが黙ってマイクロ…