私の浪人時代Ⅱ(8)

  受験手続きの書類はほとんど予備校のいうとおりにしていればそろったが、調査書だけは出身校へ取りに行った。3浪の時に行ってから10年たっていた。
 
 王子工業高校の校舎は少し改築されていた。事務の窓口で申請書を出した後、職員室に顔を出した。私はすでに都立高校の教員であるから、立場が微妙である。13浪の受験生であると同時に勤務先こそ違うが高校の教員である。元の担任はまだいるようだったが、会えなかった。
 
 顔見知りの先生が何人かいた。「ちょっと寄っただけです」と挨拶した。東大理Ⅲを受験することは担任以外にはとても言えなかった。いろいろ説明するのが面倒だった。1週間ほどしてもう1度行った時は窓口からできあがった調査書を受け取っただけでそのまま帰宅した。
 
 制度が始まって2年目の共通1次試験を受験した。共通1次試験は英数国各200点、理社がそれぞれ選択2教科で200点づつの合計1000点が全受験生の必須科目だった。理科は物理と生物、社会は倫理社会と政治経済を選択した。大抵の理系志望者が社会の選択科目はそうしていた。
 
 理科は教員免許所持者であるから得意科目、社会は一般常識でなんとか点が稼げる。2次試験にある科目を選んでおけば受験勉強の負担が軽くなるのである。共通1次の結果は自己採点して、全国の国公立大学がその志望者の得点で一律に序列化されることになる。
 
 今と同じく年明けの1月の初めの土日が受験日である。私の受験場は上野の東京芸術大学だった。寒い日で朝から雪だった。午後にはみぞれ混じりの冷たい冬の雨に変わった。
 
 土曜日は試験が終わると上野、池袋、東久留米と電車を乗り継いで、夜はいつも通り定時制の教員になって授業をした。翌日は気合いで起きてまだ冷たい風の吹く暗い曇り空の下を上野まで行った。
 
 翌日は新聞に解答が発表された。自己採点の結果は873点で理Ⅲの足切り点は905点前後といわれていた。予備校ごとに少し違うが900点は取っていないと2次試験は受験できない可能性が高い。
 
 私は迷った。理Ⅲを除けば他は大体大丈夫だった。精神科医になるだけなら、医科歯科大や千葉大などでもよかったが、今の勤務をやめないと通学できない。東大だけが定時制の教員をしながら通学可能であった。
 
 理Ⅲに出願して1次不合格なら諦めるか、それとも理Ⅱに出して入学してから、またもう1年間受験勉強を続けるか。東大は入学してから学部が決まる。理Ⅱからは10名が医学科に進学出来ることになっていた。ただしそれには東大生を相手に教養学部の成績で高得点を取らなければらない。
 
 結局私は後者を選んだ。30歳の受験にそそいだ1年間を2次試験も受けずに諦めるわけにはいかない。それに東大生というものに一度なってみたかった。10年越しのコンプレックスを解消したかった。    
 
 98.2.23

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 あとがき:人生の転機というものがあるそうだ。以前、新聞のコラムに著名人が自分の人生の転機、という題でエッセーを書いていた。それを読みながら、私の人生の転機はこの時かも知れない、と思った。だが20年たって振り返ってみると、それが転機といえるものかどうかは疑わしい。確かに私は「東大生というものになった」が、だからといって自分があまり変わったとは思えない。相変わらず猫背でうろつき回っているだけである。

 東大に入ったら何かすごいことがありそうだ、などと思った自分は確かにいたが、なんだか嫌なヤツだった思う。そういうヤツとはあまりおつき合いしたくない、と自分で思う。そういうことがわかっただけでも、いくばくかの意味はあった。だが世間にはそんなことをしなくても同じような結論に達する人はいくらでもいる。なかなかいい気にさせてくれないなあ、と春の雨を見ながら頬杖をついている今日この頃である。 (2001.3.24)