私の教員時代(11)

 私が教員の辞令を受けたのは1976年4月1日、27歳の時だった。それから27年、転職も休職もせず毎日毎日職場と自宅の間を往復した。始めの勤務先は離島の僻地、小笠原高校だった。ここに3年間在職して結婚、内地に帰ってきて12年間久留米高校定時制に勤めた。そのあと現在の新宿山吹高校に異動して13年目を迎える。最短3年に変更されようとしている同一校在職年数から考えると、異動経験は少ない方である。今の職場でも、 私が一番長くいることになってしまった。

 管理職にならなければ教員のステップアップは異動によって行われる、というのが業界の常識。世間では教員というだけで同一職種と思われているようだが、勤務校によって仕事内容がまったく違うのが教員の仕事である。聖職者と労働者の間をうろついていた教員も最近では専門職ということになっているらしい。

 専門職ならその道に精進すれば円熟の域に達するのが普通である。25年もやっていれば、中堅ベテランであろう。ところがこの私に関しては、まったくそういう感じがしない。いまだに授業のたびごとにそこはかとなく不安である。その場その場をしのいでいるだけの自転車操業である。どうも腰をすえてやっている感覚がない。世をしのぶ借りの姿の教員稼業の思いがぬぐい切れない。

 教員時代を書けないのはそれが原因かもしれない。高校時代や浪人時代はそれなりに必死に生きた感じがする。自分の中での評価も定まっている。だから毎回それほど苦労することなく書けた。教員時代を書くと言っておきながら、結局は大学時代の終わりを10回ほど書けただけである。

 そうしてほっているうちにmagmagから、6ヶ月発行がないとメールマガジンをうち切ります、と言ってきた。それで形だけ出しておこうか、と始めてみた。そのうち少し考え直した。始めの頃はメールマガジンという形式が新しく、送りつけて読んでもらうのも悪くない、と思った。しかし発行当時から3年もたつと、インターネットの事情も変わる。メールマガジンがだんだんうるさくなってきた。いろいろなサイトにアクセスしてサービスを受けると、すぐにメールマガジンがついてくる。そのうち頼みのもしないのに、文字化け中国語らしいメールとか、英語のメールとか、広告とか、挙げ句の果てにはあきらかにウィルスがついていると思われるメールまでやってくる。1通や2通じゃない。毎日5,6通は来る。どんどん削除するが面倒この上ない。相手のメーワクもかえりみずに送りつけるのは、あまりいいもんじゃない、と思うようになった。

 メールマガジンという形ではなく、webページを作ってそこへ記事を上げていく。関心のある方にはそのサイトを見ていただく。サイトへのアクセスは自分から積極的にいかないと、見ることができない。こちらから押しつけている、という感じがない。いい区切りだから、この形のメールマガジンはいったんやめてみようと思う。サイトの方に新しく書き下ろしてそのお知らせを送れば、それほど負担にならないのではないか、そんな試みをしていくうちに、教員に対するスタンスも定まり定常的な更新ができる日が来るかもしれない。

2003.6.29

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 あとがき:というわけで、今後はサイトぱーこシティにアップしたら、このメールマガジンでお知らせしようと思います。まぐまぐには、特に断りなく使用させてもらって、何か言われたら対応しようと思います。