私の住宅事情(2)

 私が昭和30年代をすごした8畳一間を今風にいうとワンルームということになり、いささか聞こえはいいが、文字通りの一部屋でそこに一家7人の衣食住がすべて詰め込まれていた。寝るときは、父と兄、母と私、姉2人が一つのせんべい布団に並んで寝た。残ったもう一人の姉は布団を半分に折って一畳分の大きさにして使った。
 
 起きた順に布団をたたみ、お膳を出して食事の支度をした。母は更年期障害とやらでなかば寝たきりの生活に入っていたから、その布団はひきっぱなしであった。これは難民のテント生活に似ている。狩猟採集の移動民族の暮らしである。だが人間の生活というものは進歩発展する。次の12年は変則的な都市型定住生活へと変わる。
 
 高校1年生男子を母親と同じ布団に寝かすのは忍びないと思ったのか、私の一家は2kmほど離れた王子駅のそばのアパート福寿荘に引っ越した。2階建ての4畳半ばかりが14部屋あるアパートで玄関で靴を脱ぐ形式のものである。各部屋にガス台と流しがついていて、トイレは水洗のものが各階に1つ配置されていた。
 
 始めは3部屋借りた。2番目の姉が結婚してそこを出た。兄は大学を卒業して埼玉県の高校教員になった。収入も増えたので、もう一部屋増やし、最盛期には聾唖者の叔父も含めて5部屋を1家族で占有した。1階に4部屋、冷蔵庫、洗濯機、TVを詰め込んだ一部屋を居間にして父が寝た。兄の勉強部屋には寝たきりの母を入れ、姉2人の部屋と叔父が一部屋、2階に物置として活用した部屋に私が入り、計5部屋となる。
 
 父が居間兼食事部屋に寝たのは、一番早く起きてご飯を炊きみそ汁を作るのは父の仕事になっていたからである。炊飯はもちろん電気釜だが、タイマーは今のように時刻を設定するのではなく、ぎりぎりとゼンマイを巻いてスイッチの入る時間を指定する型式のものだった。
 
 冬に備える蟻のように兄は本を買い込み、北向きの暗い部屋の畳は本の重さでくぼみ、窓は開きにくくなっていた。姉の部屋には電話が入った。それまでは、管理人室からの呼び出しだった。こちらからかけるときは5分ほど 離れたタバコ屋の赤電話を使った。
 
 私は始め下の姉と同居していた。押入の下の空間に小さな折り畳み式の机を入れスタンドを引き込んで、体を折り曲げ背を丸めて深夜「ガロ」に投稿するマンガを書いたりしていた。
 
 福寿荘で始めて寝た夜に見た夢は忘れがたい。その後居間になる部屋に父と2人で横になった私はなかなか寝つかれなかった。引っ越しの興奮もあったと思うが、あたりが静かすぎる。幹線道路であった明治通りに面した滝野川の家では夜中じゅうひっきりなしにトラックが通っていた。地響きを立て風を切って走る車の騒音の中で寝ることに慣れていた私は余りの静けさに入眠を妨げられていたのである。
 
 明け方うとうとして奇妙なビジョンを経験した。広大な宇宙空間に私が一人横たわって浮かんでいる。どこまでいっても無限の暗闇の遙か彼方から小さな光が現れ、それが近づいて来て私の右足に触れたかと思うと、そこから私の体は裏返された。光の帯が脚から胴体を通って頭へ抜けて行く間に次々と私の内部は暗黒の宇宙空間で満たされていった。光の点が頭上遠方に去っていった時には私の体の輪郭をした暗黒が一人浮かんでいて、その回りがそれまで私の内部だった空間になっている。
 
 目覚めた私に強く残っていた印象は完璧な静けさといったものだった。大げさにいえば、その沈黙の深さに戦慄した。思春期まっただ中にありがちな体感異常と片づけたいところだが、34年たった今でもはっきりと憶えている。
 
 この昭和39年、1964年は東京オリンピックの年である。これを一区切りにして敗戦国日本が「経済大国」への道を邁進することになるのであった。4畳半の居間は次々と発売される電化製品で埋まっていった。生活は便利になったが、家電製品が立錐するすき間で中腰加減に食事をこそこそと済ませ、TVを見た後は自分の部屋に戻って寝た。
 
 高校1年の夏から、卒業して3年浪人、バイトに明け暮れた6年間の大学生活、計12年間をこの福寿荘で過ごした。
 
 その間に父母が亡くなった。父親は滝野川病院で死に、近くの寺を会場にして葬式をすませた。落ちぶれてはいたが、葬式は人生の総決算である。どこから聞いてきたのか、父の学生時代の友人と自称する恰幅のいい紳士が外車から降りてきたりした。親戚を含めて100人近い人が集まったのではなかったか。
 
 母は父の没後3ヶ月ほどして逝った。葬式は母が寝ていた部屋でおこなった。互助会に頼んだ葬儀屋はさすがにプロで4畳半の部屋に母の寝ている棺桶と最小の花壇、焼香する場所を作り、ドアを開け放して、そこから室内をのぞくようにして弔った。もっとも寝たきりだった母に弔問客は少なく、親戚を除けば赤電話のタバコ屋の主人が来たくらいだった。父と同じ町屋の焼き場で骨になった母は位牌と共に父の寝ていた居間にいれることになった。

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 あとがき:このアパート福寿荘は木造モルタル2階建てというやつで、玄関で靴を脱ぐ形式のものである。このアパートの私が寝起きしていた部屋には、流し時代の水原弘が住んでいたという。あの「黒い花びら、静かに散った」の水原弘である。と言ってももうわかる人は少ないと思われる。レコード大賞を授賞した歌手である。

 一番近い盛り場は赤羽で埼玉県と東京との県境、工業高校の同級生には赤羽付近から通っているものが数人いた。すぐ近くに江戸の昔から桜の名所である飛鳥山がある。兄が通った高校はすでに廃校になりこの山の名称をつけた高校になった。姉の通った都立高校もついこの前廃校になり、チャレンジスクールなる高校となった。

 私は浪人時代にこの飛鳥山から米軍王子キャンプに抗議するデモ隊を見下ろして興奮しそのルポを通信添削オリオンの会報に送った。筆名は水上哲人とした。なんだか明治大正時代の高校生みたいな筆名である。私の心理状態がわかろうというものだ。

 下町といっても浅草のような文化もなく、友人Aの住んでいる文京区のような文教地帯でもない。そういうところで私は育ったのである。前号で述べたとおりこのアパートは取り壊されてもう現存しない。(2001.4.21)