私のバイト時代 (13)

 ルーマニアではゴキブリのことをグンダークというらしい。いかにも進駐軍相手に覚えたといった感じの英語でルーマニアの言葉はグンダークだけである。「ゴキブリはもう出ない。6ヶ月は保証する」という意味であろう片足の説得は相手に有無を言わさない迫力があった。父親はうんうん肯いていた。交渉成立である。
 
 無口と私はさっそくビニール覆いの作業を始めた。引っ越しと同じでこの仕事も人の家庭を裏からのぞける立場である。毒ガスマスクにゴム手袋ゴム長の異様な風体の我々を見る母娘の顔は不安そうであった。言葉は通じないが、ルーマニア人といえども人の子だなあ、と思った。
 
 このバイトで記憶に残っているのは片足と無口のいさかいである。仕事が終わると、1階の物置兼事務所兼居間で一休みすることになっていた。翌日の現場の連絡などもここでした。
 
 ある日私が車の荷物を片づけて遅れてその部屋にはいると、きまずい空気が流れていた。片足は立ち上がって腰に手を当てて押し黙っていた。無口はテーブルの上にあるいれ立てのテーカップを見つめたまま固まったように動かなかった。
 
 「お前みたいな学生風情になめられてたまるか」片足が言った。無口は黙ったままだった。「出てけよ」さらに片足が付け加えた。無口はうつむいていたが、いかにもどこか痛くてたまらないという感じでゆっくりゆっくり手を動かして、紅茶の中にティースプーンで砂糖を入れた。一杯二杯三杯とかき回しもしないでのろのろその動作を続けた。
 
 無口は泣いているのだった。ここを追い出されたら寝るところがなくなってしまうのだ。私は息を殺してその場にたたずんでいた。無口の作業を見ながら、人間というのは窮地に立つと意味のないことをするんだ、と考えていた。それから片足が私を見た。もう帰れ、といっているようだった。私は黙礼するとそこを出た。
 
 翌日から無口はいなかった。片足には何も聞かなかった。片足も無口のことは何も言わなかった。今度は私が毒ガスのマスクをかけて薬をまく役になった。片足は大学の学生課に求人の応募を出した。私は薬を吸うことが体に悪い気がしていたし飽きてきたので、それを機会にやめることにした。
 
 次に始めたバイトはその後3年ほどやることになるコーキングの仕事である。ビル建築の現場で作業した。窓枠のサッシとガラスの間に弾力のある詰め物をして、ガラスを固定し防水の機能を持たせるのが目的だった。これも大学の学生課の掲示板で見付けた。
 
 求人主は丸高塗工となっていた。大井町にある個人企業で有限会社だった。初めての現場は府中の競馬場である。1971年3月だから今から28年前のことになる。今ある競馬場の観客席は私がやったのだ。もっともそれ以降再工事をしたかどうだか知らないので、私のやったところが残っているかどうかはわからない。仕事は主に丸高塗工の社長である50代前半の男と私の2人でやった。
 
 初めて会ったときその男は「わしのことはオヤジさんと呼んでくれ」と言った。そして「バイトだとは言うな、見習いということにしてくれ」とつけくわえた。オヤジさんは没落した職人だったのである。自分の弟子は取るがバイト学生を使っているということは職人の矜持が許さないようだった。そのオヤジさんが日銭でバイト学生を雇うのである。オヤジさんの自尊心は痛んでいたと思う。
 
 「仕事を受けるときは金の話はするな、金は仕事が終わった後でもらうものだ」とも言っていた。戦前は漆職人の修行を受けたという。宮内庁の仕事も受けたそうである。戦後になって、漆の技術を応用してペンキ屋になり、防水工事そしてコーキングの仕事に移ったのである。
 
  99.1.5

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 あとがき:このシリーズを書いた時は思い出さなかったが、これ以外にも、短期のバイトはいくつかやった。成城にある東宝撮影所の雑役とか、予備校の夏期講習のパンフ配布とか、友人が経営している喫茶店のウェイターとかいずれも1、2日のその場限りの仕事だった。事務職のバイトはついにやらなかった。コーキングの仕事に移ってからはこれだけをやった。バイトというよりは本業のようなものになっていった。 (2001.8.18)