ことの顛末(1)

  小笠原の教員時代を書いている途中だがここで臨時ニュースを申し上げます。といった感じになる。この自伝シリーズにあるように、荒川工業高校実習助手から初めて、29年と11ヶ月勤めた東京都公務員におさらばする時が突然やってきた。相変わらず計画性も何もない。来た話を受けただけで例によってその場のノリである。

 K氏から電話があったのは、確か11月の初めである。「異動はどうなっている?」と聞かれた。東京都の高校教員は一定期間たつと、勤務校を移ることになっていた。公教育の平等化と人事の適正化が目的だということになっているが、異動をエサにいうことを聞かせようという魂胆である。私が教員になったころは「希望と承諾の原則」と言って、本人の希望と承諾のもとに異動するのが慣行であった。その調整は校長がやっていたから、「原則」は校長のさじ加減となる。原則では本人が希望すれば一つの学校にずっといられることになる。その学校の名物教員というのが制度的に保証されていたわけだ。

 それが同一校12年と上限がきまり,さらに8年6年と短くなった。異動の機会が多いほど、言うことを聞かなくてはならない機会が増える。私は上限12年が決まったときにその学校を去って次のところには14年もいることになった。たいして希望もないから、目の前のことをやっているとそうなる。それが、新しい制度で決めた期間の2倍を越えて同一勤務校に在職していることになった。私のスタンスが変わったのではなく制度が変わったのである。それで毎年異動希望書なるものを書いて、それが満たされませんでした、という形で居座る結果となった。

 その異動がどうなるか、わからなかった。それに加えて最近はやたらとどうでもいい書類を書かせるようになった。自己申告書や授業計画書など、原理的に不可能なことまでやらされていた。それでも職を失うよりまし、と言うことを聞いていた。いつかやめてやる!と冗談まじりにつぶやいていた。そんなところへK氏の電話である。

 「ちょっともめている」と言うとK氏は「来ないか」と言った。3年前、K氏は呼ばれてある私立高校の校長になった。まったく異例の人事である。教頭の経験もなく、いきなりヒラからトップに抜擢されたのだ。神懸かりとでもいうしかない。そのとき、私も相談を受けた。私は、いい機会だから都を退職してその話に乗るのがいいと答えた。その学校へ来ないか、と言うのである。私の年齢なら、非常勤講師である。それはまだ困る。そのことをいうと「専任で」と言った。

 私は退職まであと4年。最後のご奉公をどこか他の都立高校でおくることになるかも知れない、そう思っていた矢先の申し出だった。K氏の学校では定年はない、という。「ちょっと考えさせて」と言うと「早めに返事をくれ」と言うのである。信号も待つことの出来ないK氏である。以前K氏が同僚だった頃、一緒に退勤すると駅まで道で信号が変わりそうになると、K氏は必ず走った。信号で待たされるのが嫌なのだ。帰宅するだけだから、それほど時間が逼迫しているわけではない。(相変わらずだ)と私は思った。もっとも人事は相手のある話である。私が断れば、また該当者をさがさなければならない。

 私は理科の生物を長年担当してきたが、学校カウンセラーもできないわけではない。東大の研究室で勉強したのは、むしろそちらの方だった。教える方なら、理科より数学を担当してみたい、と思っていた。2年前に都で担当教科を変える試験を受けようと思っていたら、その試験は現在中止している、と言われた。採用希望者が多く現職の変更は認めない、というのである。それであきらめていた。

 どんな立場の専任なのか、K氏に確認すると理科と数学で、という。私は1週間考えさせてくれ、と言った。
 2005.6.30

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 またまた半年放置した。その間に私の退職話が進み、30年に一月たらずの公務員生活が終わってしまった。そのことの詳細は誰にも話していない。前の職場で「異動はどうなっている?」と立話で聞かれる。「退職するんだ」と言うと、相手はとたんに黙って、それ以上のことは聞いて来なかった。なんだか、踏み込んでいけない領域に入ってしまったようである。退職とは、社会生活上の故人である。もうこいつはこの世の人間じゃないんだ、そんな感じだった。そして一体どうしたことだろうと、遠巻きにささやきあっている、という具合だった。私にも予定外のことだった。

 都に在職していた時のクラス通信から始まったこのシリーズもまた予想外の展開をしめすのだろうか。これまた例によってその場のノリで進行するしかない。メールマガジン終了のお知らせが「まぐまぐ」から来ている。あと30分ほどで時間切れだ。
これもぎりぎりに間に合わせて、また6ヶ月延命することになる。