私の浪人時代Ⅱ(9)

 結局願書を出したのは東大理Ⅱだけだった。精神科医への道は入学後の可能性に賭けることにした。基準点は830点前後と予想されていたから、2次試験が受験できるのは確実である。
 
 試験日は3月3日4日で3日は私の31歳の誕生日である。会場は本郷であった。入り口の前には駿台予備校の職員が激励に来ていた。合格鉛筆なるものを受験生にみさかいなく配っていた。私ももちろん受け取った。
 
 3日は3時過ぎに試験が終わると、本郷3丁目、池袋、東久留米と電車を乗り継ぎ平常通り授業をして22時頃まで職場にいた。2日目も同様だった。朝がつらかったがもうやるしかない。
 
 東大の試験終了はサイレンで知らされる。最後の試験が終わったとき私は合格を確信した。すべての問題ができたわけではなかったが、理Ⅱでは6割取れれば合格は確実である。東大新聞の解答速報で自己採点してみると、どう少なく見積もっても7割5分は取れていた。
 
 入試の実力とは問題がすべて解答出来る力ではなく、与えられた時間内でいかに最大得点を取れるか判断する力である。ざっと問題を見て、出来る問題と出来ない問題をすばやく見分け、出来るものだけを時間内に確実に解答することが肝要である。
 
 何ができるか、ではなく、何ができないかを正確に判断できた者が合格できるのだ。数学では4題完答し2題は半答で部分点を確保した。時間が少し余ったのが出来ない問題はあっさりあきらめ、見直しをしたら足し算を間違えていた。それをなおして受験番号の記入を確認して時間切れとなった。
 
 勤務校では物理を担当していたが、期末テストに出題した問題と全く同じ問題が出た。自分が作った問題なので解けないわけがない。もし私が予備校の講師だったら、予想問題的中で金一封ものである。高々受験の話であるが、青春と呼べる10代後半から30代に入る時期に大学受験は私にとって重大関心事であった。自慢したくなるのも無理はない。
 
 合格発表は3月20日、快晴の春の日差しが暖かい日であった。妻と連れだって見に行った。受験番号50053は確かに掲示されていた。そのあとにカタカナで受験者氏名が表記される。本郷3丁目にある「本郷も兼安までは江戸のうち」と書いてある店の赤電話から高校時代の担任に報告した。
 
 清瀬の書店でアルバイトをしていた妻はサンデー毎日週刊朝日、週間読売と3冊の合格者名簿特集号をもらってきた。勤務先の校長に報告した。勤務時間の関係で公には出来なかった。校長は「聞かなかったことにする」と黙認してくれた。
 
 こうして工業高校卒業後13年目の浪人時代は終わることになった。職場では親しい同僚一人だけに打ち明けて秘密にしていた。その後、駒場に4年、本郷に3年、学生としてすごし卒業した。勤務を優先したので必要以上に長くかかったのである。さらに4年間研究生扱いで本郷に通った。
 
 31歳から41歳までの11年間を「学生」として過ごしたが、現実的には無駄な11年間かもしれなかった。 
 
 98.3.10

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 あとがき:この21年間で変わったこと列挙しておく。もちろん私の現在知っている範囲内のことである。センター入試は受験科目が選べるようになった。入試の期日は前期、後期と分離分割され前期は2月後半になる。合格発 表の期日もそれにともなって変更された。最近は氏名の掲載はやめるところが多い。掲示すらしない所もある。郵送や封筒に入った合格者受験番号一覧を受験生に渡すところもある。週刊誌の合格者特集もその性格が変わってきた。地方の新聞などではどうなっているだろうか。

 駿台予備校→駿台予備学校と改称。予備校で当時と大きく違ってきたのは、現役生対象のものが増えてきたことであろう。小学校(それ以前)から大学(それ以後)まで、学校以外の教育機関は増大した。制度が変わったが大人になるまでの長期間にわたって、受験にかかわる「文化」はますます精緻になってきたようである。

 私がケアレスミスを直した数学の問題の答えは、14分の(7マイナスルート21)で2次方程式の根(今は解という)である。物理の問題は確か磁石の磁力線と電気力線を図示する問題で、どの教科書にも出ている基礎中の基礎である。母親が子供の出産時の体重を忘れないように私もこの意味のないことをいまだに憶えている。
(2001.3.31)