私のバイト時代 (9)

 工場の敷地は広大で全部測量するのに2週間ほどかかった。化学工場は作業員も少なくガランとした印象だった。測量の作業は一般の道路や民家と比べて格段に楽だった。ただ危険な個所が多く、ヘルメットの着用が義務づけられていた。油断していると、すぐわきで白い蒸気がいきなり吹き出したりした。普段は入れないところなので私の好奇心はおおむね満足させられた。
 
 登記所というところにも行かされた。法務局の管轄で土地と建物の測量原図が閲覧できた。申請するとほとんどどこの場所でも写しがもらえた。手数料を支払うと、いまのようなコピーではなく湿式の感光紙にあまり鮮明でない写しが入手できた。その図面と実際の測量をつき合わせるのも、測量会社の仕事だった。世の中の土地は全て測量済みで詳細な図面になって保管されているのだった。
 
 バイトが社会勉強といわれるのは、そういうことが実感を持ってわかるところにある。測量場所は注文に応じて様々だったので、都内は勿論、近県の自分の生活とは全く関係ないところ出かけることも多かった。その後、初めての場所のはずがどこか知っている感じがする、ということがよくあった。おそらく、バイトで以前来たところかも知れなかった。測量士は国家資格で実務経験がないと受験できない。測量士になってもいい、と思ったことも確かだった。この仕事をなんでやめたのかおぼえていない。
 
 次に始めたのは東京都清掃局のゴミ屋だった。これは大学の掲示板に出ていたのに応募した。勤務時間が短い割に時給は高かった。募集には2種類あった。一般のゴミ収集と屎尿の処理で、もちろん屎尿の処理の方が高給である。ゴミ収集が1日3800円で屎尿処理は4500円だった思う。いまでは下水が完備して都内では屎尿の処理をしているところはよほど特殊なところだろう。
 
 当時はバキュームカーを見ることは珍しくなかった。トラックの後ろがタンクになっていて、そこに蛇腹のホースがついている。その先には蓋の働きをしている軟球がついていた。真空ポンプの力で便所の汚水を吸収して回収するのである。そちらにも心は動いたが、匂いが膚に染みついてつらい、と聞いたので、一般のゴミ収集の方にした。
 
 年末年始のゴミが増えるときの臨時要員だった。勤務時間は朝が早く8時前からだったが午後は2時頃には仕事は終わった。作業所には風呂が完備されている。一風呂浴びて、陽の高いうちに自動販売機のワンカップの日本酒で一杯やって、いい機嫌で職場を離れることが出来た。
 
 作業服は支給された。靴は頑丈な革製でつま先の所に鉄板が入っていた。安全靴というのだそうだ。この鉄板が冬は辛かった。確かに物が落ちてきても足のつぶれる心配はないが、冷たさで足先はしびれ感覚がなくなる。仕事が終わって風呂に入る時はぬるま湯から徐々に温度を上げた湯に入れていかないと、足先から細胞一つ一つが叫んでいるような激しいしびれに襲われた。
 
 一緒に作業するのは年寄りが多かったが、一人30代の男がいた。彼は自分で中央大学の出身だといい、大学出のする仕事ではない、と言っていた。そういわれると後の言葉が継げなかった。どこか影のある世をすねたような表情をしていた。
 
 私の回ったのは目蒲線沿線の荏原町で、薬科大学がある。そこにはデスポーザルの注射器や医療用品が大量に捨てられていた。私はそのいくつかを分からないようにくすね、持って帰った。道路に出ているゴミを回収して清掃車で移動するときは車の屋根に仰向けになって寝た。冬の青空が視界いっぱいに広がりそれがどんどん後ろに流れていく。これは気分が良かった。年末年始なので、作業していると、1年間ご苦労様と封筒に入れたご祝儀をくれることもあった。千円札1枚のことが多かった。これは予想外の収入だった。 
 
 98.10.26.

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 あとがき:神経衰弱になりながら3年浪人して入った大学だったが、ほとんど行かなかった。その間の事情は大学時代1で述べる。バイトも転々としたので人間関係は出来なかった。世間一切が私とは関係がなかった。一人でバイト先に出勤し一人で帰る。私はアルコールに弱い体質なので酒は飲めなかった。退勤後薄暗い喫茶店を見つけてそこで義務のようにノートに拙い記録をつづった。それから疲れ果てて帰宅して丸太のように眠った。翌日もまた同じ1日が繰り返されるのだった。1970-1971にかけてのことである。(2001.7.21 )