私の住宅事情 (3) 

 高校浪人大学と合わせて12年間東京北区のアパート福寿荘で過ごしたが、この間1年ほど私は家出している。
 
 工業高校を卒業して3年浪人の後入学したのは東京都立大学理学部生物学科であった。受験数学の成績が悪くないので理系を受験しただけで、特に将来展望があったわけではない。今でこそ生物系は難関であるが、当時は物理数学化学が難しく、生物地学の偏差値は低かった。経済的にも私学は無理だった。
 
 入学したのは昭和45年、70年安保の年である。大学紛争はあらかた終了していたが、私は大学に自分の居場所を見つけることが出来ず、義務のようにデモに行き、機動隊に殴られたりしていた。1,2度授業に顔を出しただけで、足は大学に向かなかった。
 
 当時発行されたアルバイトニュースや大学の掲示板で仕事を探してバイトばかりしていた。3浪してせっかく入った大学で意味のあることを見つけることが出来ず、自分はまっとうなことをしていないという後ろめたい気持ちもあって、毎日家族と顔を合わせるのも辛かった。
 
 始めて家族と離れて住んだのは大学の学生寮だった。東寮という。寮は地方出身者のためのものであるが、都内に住んでいても住宅に困窮していれば応募することが出来た。寮費は月額200円、光熱費込みで500円、それに朝夕2食の食費を加えても5000円もあれば、一月生活できた。あたりは工場街ですぐそばをモノレールが走り、外へ出れば近くの羽田飛行場発着のジェット機が低空を往来していた。
 
 11月に入寮、一冬そこで寝起きした。引っ越しはせんべい布団と段ボール一箱の学用品をタクシーで運んだ。旧制中学時代からある東寮は木造で床は板の間、私が入ったのは細長い8畳ほどの部屋で、2段ベッドが一つ、机が二つ、掃除用具入れがあるだけの倉庫のような部屋だった。
 
 同室者は夜間法学部の3年、地方出身の勤労学生で自治会の活動をしている男だった。共産党の青年組織である民青に入っていた。私に特別な政治的主張はなかったが、鬱屈していたので全共闘に強いシンパシィを感じていた。民青と全共闘は敵対関係にあったから、この実直そうな同室の男とは話しもしなかった。朝晩の短い挨拶を交わすだけである。昼はバイトをしているか意味もなく街をうろつき回り遅くなって寝に帰るだけだからそれですんだ。
 
 食事は朝晩注文した数だけ出してあり、それを各人が勝手にとって食べるのである。三島由紀夫の自決事件はこの食堂のTVで見た。風呂は打ちっ放しのコンクリートの壁にシャワーがついているだけのものだった。冬の夜、素裸になり石鹸を直になすりつけてぬるいお湯で体を洗った。
 
 デモの時に知った和光大学の女子学生のことが頭から離れず2段ベッドの上で体丸め膝を抱え悶々としていた。精神状態は悪く、その女子学生のイメージがいつも頭の中に張りついていた。とても世にいう「恋愛」だとは思えなかった。川崎工場地帯の測量、引っ越し助手、清掃局ゴミ収集、競輪場ガードマン、ゴキブリ駆除と職を転々とした。
 
 3月の終わりに仕事を現場のコーキング工事に変えた。それを契機に、高校時代の友人であるAの家に下宿した。ただ一人の友人であったAは文京区に住んでいた。近くに東大の植物園があるような文教地帯である。
 
 Aは中学時代に父親を亡くし兄姉は結婚して家をでていたので、母親と2人で住んでいた。自分の部屋を持ち生まれてから転居することなく育って来たAを私は羨んでいた。図にはそのAの家を示す。木造2階建てで下は6畳、6畳、4畳ほどのDK、2階は板の間の6畳と4畳半、それに写真をやっていたAが暗室として使っていた2畳ほどの流しのある板の間があった。
 
 2階の6畳がAの居室で私は彼の姉が使っていた4畳半に入った。居候であるが、食事込みで1月2万円ほど納めた。21歳の春から夏をここで過ごした。内風呂はなく、近くの銭湯に通った。
 

 私の母は病弱だったので、あまり母親というものの世話を受けずに育った 私には、この生活は快適なものだった。下宿というよりは家族のように扱ってもらえたからである。風薫る五月に朝目が覚めて布団のなかでまどろんでいると、下からAの母が調理をする音が聞こえてくる。菜物をきざむリズミカルな音や、みそ汁の匂いが淡く立ちのぼって来る。これはしみじみと幸せな気分だった。支度が終わると、まずAの名を呼び捨てで呼び、次に「修ちゃん」と私を呼んだ。
 
 その時の気分で「修治君」ということもあった。Aが先に下に行き、その後について私が食卓につく。食事はみそ汁、魚、お新香を主体にした純和風の時もあれば、ハムエッグ、パン、サラダ、コーヒーの洋食のこともあった。いずれも家庭の味でAと私は兄弟のようにそれを食べ、Aは大学へ、私はバイトに出勤するのであった。大学は籍があるだけで、モラトリアム学生のはしりだと言えよう。
 
 前号で述べたように、父が入院して危篤になり私は福寿荘に舞い戻った。両親が続けて亡くなったので姉弟4人のアパート生活がその後5年続いた。

f:id:pahko:20190417010459j:plain

1999.8
━━━━━━━━━━━━━━━
 あとがき:自伝シリーズはこのepisode.4の後は、バイト時代、大学時代1と続く。この住宅事情はそのダイジェスト版のようなものである。
 FHJ誌にこの「私の住宅事情」を掲載するように取りはからってくれたのは家庭科の同僚Tさんである。彼女はFHJの委員をしていた。そしてクラス通信を発行していた。そこでお互いのクラス通信を交換する事になった。
 なんだか交換日記みたいだった。私のクラス通信の裏面に載せた自伝シリーズを読んで、彼女はFHJ誌のエッセイを私に依頼することにした。そして、雑誌に原稿が載るたびにそれを拡大コピーして家庭科室の廊下に掲示した。
 通りかかる生徒がそれを読んだりしていた。この頃はバイト時代を連載していたので、両方を読むと裏表わかっておもしろい。繰り返しが多いのは自伝の当人が同じなのでこれは致し方ない。 (2001.4.28 )