2019-06-01から1ヶ月間の記事一覧

ことの顛末(1)

小笠原の教員時代を書いている途中だがここで臨時ニュースを申し上げます。といった感じになる。この自伝シリーズにあるように、荒川工業高校実習助手から初めて、29年と11ヶ月勤めた東京都公務員におさらばする時が突然やってきた。相変わらず計画性も…

私の教員時代(14)

高校は1学年が8名、2学年が15名、3学年が13名の生徒数計36名、教員は国語2社会2数学1理科2保健体育1英語2家庭科1の12名、これに教頭校長で計14名となる。音楽美術は中学の先生が時間講師に来ていた。単学級校としては必要最小限の布陣…

私の教員時代(13)

離島の朝は早い。父島北緯27度5分。東京より緯度にしてほぼ9度南方になる。初日の出が日本で一番早いのは小笠原である。TV中継などでご覧になった方があるかも知れない。TVの中継は1日だけだが、住んでいる人間にとって1年中朝は早い。 4時を過ぎ…

私の教員時代(12)

前号から6ヶ月経ってしまった。自伝シリーズは1行も書かけなかった。そして、お約束通りにmagmagから、もうやめたらいかがとメールが来た。前回たくらんでいたような「自分のサイトを見てくれるようなお知らせメールマガジン」を、まぐまぐは認めてないこ…

私の教員時代(11)

私が教員の辞令を受けたのは1976年4月1日、27歳の時だった。それから27年、転職も休職もせず毎日毎日職場と自宅の間を往復した。始めの勤務先は離島の僻地、小笠原高校だった。ここに3年間在職して結婚、内地に帰ってきて12年間久留米高校定時…

私の教員時代(10)

私にはよくわからなかった。これが世間で言うところの恋愛というやつなのか。どうも違うような気がする。相手が自分の中に入ってきたり、急に自分がくだらないことをしているように思えたり、そういうことを他の人が言ったり、書いたりしたのをみたことがな…

私の教員時代(9)

出航の31日は新宿で知子と待ち合わせた。新宿御苑の入り口というのが彼女の指定だった。新宿御苑は小学校の遠足以来入ったことがない。私は手ぶらだった。いつも大学へ行くときのようにGパン(ジーンズという言い方は当時していなかったのを思い出す)に…

私の教員時代(8)

さらに1976年の3月の記録を続けることにする。 22日後楽園に行って姉の友人のSさんと話。その後引っ越し用に神田にある姉の会社から段ボールを受け取る。いったん王子福寿荘に戻り大学に行く。現在奈良で高校教諭をしているY氏と共に都立大学の助手…

私の教員時代(7)

1976年の3月の記録を続ける。 14日塾講師最後の日。能力開発センターという小中学生向けの塾である。事務所に行くと、まだ30代の社長が「どうもお世話様でした」と労をねぎらってくれた。私は結構評判が良かった。その後、例の友人Aと銀座の画廊で…

私の教員時代(6)

3月は多忙を極めた。就職先が外国より遠い太平洋上の離島ということから、なんだかもう2度と会えない、という気分になっていた。以下当時の日記から転記する。読者の方にとっては他人の日常些事など退屈かも知れないが、こういう日常の中で私は最後の大学…

私の教員時代(5)

彼女の家を頂点として大学と私が住んでいた王子福寿荘とは2等辺三角形の底辺の反対側にあった。だから新宿駅で左右に別れることになる。そこまで帰る道すがら途切れがちな話をした。 彼女には受験生の弟が一人いた。父親はいない、と彼女は言った。投げ出す…

私の教員時代(4)

事故のように彼女にキスしてから3日後に手紙が来た。「また相談にのってください」と書いてあった。私は酔って女をくどくなんて最低だ、と思っていた。彼女がどう思ったか、すごく気になった。だから手紙が来たとき、一体何が書いてあるか、震える手で封を…

私の教員時代(3)

彼女と初めてキスしたのは、12月の暮れも押し迫った頃だった。年内の授業が終わり、例の学生室で飲み会になった。私と彼女の他に下級生が2、3人いたと思う。 それまでに私は彼女の歓心を買おうとレコードや本を貸したりしていた。そうやって用事を作って…

私の教員時代(2)

香川知子と知り会うようになったのは、彼女が自分の人間関係について、愚痴とも相談とも言える話題を私に持ちかけて来たからである。 私は2年落第しているから、自分と同期の顔見知りは退学あるいは卒業して大学を去った。大学院に進学した者もいるが、皆タ…

私の教員時代(1)

1976(昭和51)年3月31日(水)午後6時、私は竹芝桟橋の父島丸デッキにいた。船はまさに出発しようというところだった。当時はまだ出航前にテープで別れを惜しむことが許可されていた。友人、知人たちが20人ばかり見送りに来ていた。 竹芝桟橋か…

さよならだけが人生だ(2)

始めの意気込みとは逆に淡々と卒業式は終わった。教室に戻って簡単な事務連絡があり、それからロッカーの整理をして、1度帰宅した。本番はこれからだった。夕刻から飲み会がある。先輩たちが企画したのである。 卒業した高校の1学年は7クラスあった。機械…

さよならだけが人生だ(1)

私は都立王子工業高校を昭和42年3月に卒業した。卒業式前後のことを述べておきたい。 卒業式では、答辞を読んだ。それは生徒会長をやっていたからである。なんで生徒会長なぞやっていたかというと目立ちたかったからだろう。立候補者立ち会い演説会の時に…

寺山修司(3)

これから出社する勤め人に混ざって、あらかじめ調べた地図の通りに進んだが、いつまでたっても文化放送らしき建物は現れなかった。そのうち番組の始まる時間になってしまった。あわててハガキに書いてある番号に赤電話から連絡した。交換の女の声の後で、男…

寺山修司(2)

マッチ擦るつかの間海に霧深し 命捨つるほどの祖国はありや 寺山修司の代表作のひとつ。この歌をもとにした劇を下北沢の本多劇場で見たことがある。つい3年ほど前である。なんだかよくわからない芝居だったが、いかにも60年代末期の感じが出た演出でそれ…

寺山修司(1)

私が高校生の時、寺山修司がメディアに登場した。それは今までの文化人の登場の仕方と違っていた。たとえば東京スポーツの競馬欄に出ている。ギャンブルは神に通じる、なんて記事を書いていたと思う。 変わった歌人・詩人というふれこみ。TVにも出てきた。…

いろおんな(3)

私とSは教室で野球部が戻ってくるのを待っていた。野球部はなかなか帰ってこなかった。それで2人して様子を見に廊下へ出た。校門の方へ向かうと野球部が廊下の角から現れた。 野球部の様子に特に変わったところはなかった。彼の話はこうである。校門を入っ…

いろおんな(2)

それからクラスの話題はいろおんなで持ちきりだった。休み時間やうるさくない教員の授業中はみないろおんなのアパートに注目した。その観察によると、彼女は朝10時過ぎに起きて美容体操を始め、その後天気がいいと洗濯をして午後1時頃には室内活動を終え…

いろおんな(1)

いろおんなは都立王子工業高校の正門前のアパートに住んでいた。私の教室は道路沿いの3階にあった。3年G組である。教室の窓から斜め向かいに木造モルタル2階建てのアパートが見えた。その2階の角部屋がいろおんなの部屋である。 始めていろおんなを発見…

読者のお便りから(4)

今回で「読者のお便りから」は一段落です。 「ぱーこシティ」はT先輩に紹介してもらい、以来ずっと読んでいます。最初の頃のダークさにはまってしまい、そのままのめり込んで、後は惰性的に毎週チェックしています。 今後のコラムの方針について、読者に意…

読者のお便りから(3)

今回は私と同世代の方のお便りを紹介します。 ぱーこさんへ 1.2.3.4.のいずれでも、と思います。同時代ですから、「当時、私は何をして、どう考えていたかな」と思い出しながら、これまで、読ませて頂いてきました。もちろん、体験したこと、感じた…

読者のお便りから(2)

今回は面識ある方のお便りを紹介します。 こんにちは。今年(いや去年か)は文化祭でお会いできなくて残念でした。お菓子研究会がなくなっていたり、第九の変わりにDJブースができていたりと世は人につれ、だなあと思いました。それが学校の自然な姿なのかも…

読者のお便りから(1)

学級通信の裏に連載してきた自伝シリーズのストックがつきた。それまでは一度人目に触れたものを点検して発行すれば良かったが、これからはそういうわけにはいかない。窮余の策として読者の方の感想を募集(偉そうに!)したところ、さっそくお返事をいただ…

私の大学時代(24)

「先生」と助教授を呼ぶと「さんで呼びなさい」と注意された。一番どんじりの私でさえ、「さん」付けで呼ばれた。だからゴミも各自、自分で捨てるのである。 私は自分が世の中にとってなんでもない存在だと思い知ったから、ともかく人の役に立つことを自分か…

私の大学時代(23)

ちょうど大学も最終学年になっていた。5年目の4年生である.理学部生物学科では、各研究室に所属することになっている。3年生の終わりに自分が行きたい研究室を希望する。 2年生の時に概論の講義があり3年生の時に実習があった。実習はほとんど必修だか…

私の大学時代(22)

3回にわたり1973年の日記を転記してきた。全部載せてコメントをつけたい気もあるが、それをクラス通信の裏面に載せるのは適当でない。その企てはあきらめることにする。 要するに、私には先のメドがまったく立っていなかった。腰を痛めたので、現場の仕…