私のバイト時代 (2) 

 大番はごく普通の町場のラーメン屋だった。開店は11時、閉店は10時ころで、11時に店を開くためには朝10時頃から準備した。店長は30代の男で奥さんと2人でやっていた。ふたりとも中国人だった。
 
 私の仕事は店内を掃除して、客があればコップに水を入れて持って行き注文を聞いて厨房の店主に伝え、料金を取る。また電話で出前の注文も受けた。近所で少量なら、岡持(というアルミで覆った木箱)を持ち出前に行った。出前のどんぶりを下げ代金をもらうのも私の仕事だった。要するにラーメン屋の小僧である。
 
 客が少ない時間帯は皿洗いをやった。11時から2時頃までが忙しかった。出前と客の注文が重なる時間帯である。3時から5時頃までは比較的ひまだった。6時を過ぎる頃からまたいそがしくなる。ビールを注文する客が来る頃には、私の仕事は上がりになった。中学生には適さない時間帯と考えてのことだろう。もっとも大晦日は年越しそばに中華そばを頼む家も多くこの日は元旦1時頃まで仕事をした。労働基準法など無関係である。
 
 仕事に慣れると、開いた時間帯に厨房を使わしてくれた。ここで見よう見まねでまずラーメンを作った。ラーメンの3大要素は、汁、麺、具である。
 
 汁は焼き豚を醤油に浸けたものが原液だった。私の知らないところで他にうまみの素が入っていたのかも知れない。ラーメンのどんぶりにこの原液を中華風のおたまじゃくしで適量入れ、驚くべきことにティースプーン2杯ほどの大量の味の素を入れる。そこに刻みネギをひとつまみ投げ入れ、同時に麺をゆで始める。
 
 麺は板の箱に玉になって入っていた。湯はたっぷり使う。麺がゆで上がる直前に、先ほどの原液にスープをいれる。スープは大きい円筒形のアルミのなべに入っていていつも沸騰していた。鳥のガラが元味だがそこに野菜の切りくず、卵の殻など台所のゴミとして捨てられるものはなんでもぶち込んでいた。
 
 当然アクが出るのでそれはこまめにすくう。粗いザルを通して無駄なダシがらは除き、そのスープを原液に加える。そこにゆで上がった麺をよく湯を切って入れる。当時の麺は鹹水が強くアンモニアの匂いがした。
 
 最後は具である。まずシナチク、なると、ほうれん草のゆでたもの、焼き豚、海苔、を乗せる。乾いた海苔が蒸気で湿らない内に食べるのがうまい。今のラーメンほどうまみもコクもない、むしろ淡泊な味だったがかえって飽きのこない仕上がりだった。これが東京ラーメンといわれるものの原型である。
 
 このラーメン(40円)を元形として、大番には、竹の子そば(30円)もやしそば(30円)チャーシューメン(60円)五目そば(60円)などのシリーズがあった。汁、麺は同じだが、具が違うだけだ。汁を塩味にして、具に野菜を加えればタンメンになる。ワンタンは麺の代わりに挽肉を割り箸の先で取りワンタンの皮を巻いたものをゆでて入れればよい。基本はラーメンである。
 
 餃子も巻かしてしてもらった。挽肉ときざみタマネギとニンニクなどを混ぜたものを餃子の皮にいれ、あの餃子独特の形に整えて、薄く油を引いてあげるのである。最後は水を入れ蓋をして火を止め余熱で水が蒸発すれば出来上がりとなる。
 
 ワンタンの皮も餃子の皮も勿論店主が粉をこねて丸い棒でのばして作っていた。麺は業者から仕入れていたが、興が乗ったのか店主が手打ちの麺を作るのを見た記憶がある。
 
 チャーハンも作った。これも味の素を大量に入れた。ニンジン、タマネギをみじん切りにして挽肉と共に炒め、卵焼きを別に作って最後に冷や飯を炒めたものに入れる。スープはラーメンのスープと同じものをつける。カニ玉やうまにや八宝菜などはやらせてもらえなかった。     
 
 98.4.22

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 あとがき:飯を炊くのを覚えたのが小学生の時である。一升炊きの大きな釜に米を入れてすすぐ。水が透明になったら米より手のひらの厚さ多く水を入れてガスにかける。始めトロトロなかパッパ赤子泣いてもふた取るな、と母は言った。火加減のことだ。先日ある若い人から質問された。「死ぬ前にこれだけは食べておきたいもの」、私の答え「冷や飯のみそ握り」。確か小学四年生だった。学校から帰って、あたりが暗くなるころ、残っていた冷や飯を見よう見まねで握り、みそを表面にのばすようにつけた。手のひらにみそがついてむずがゆい。喉に詰まる。それを水で飲み下す。この苦しさと喉越しの開放感がなんともいえない。ずっと後になって、これに海苔を巻くともっとうまいことを発見した。安上がりなものである。(2001.6.2 )