私のバイト時代 (4)

 高校は住まいのすぐ裏の歩いて5分とかからない工業高校電子科であった。ひと月ほどして学校の様子が分かるとさっそくバイトをさがした。
 
 まず初めに応募したのは石鹸工場の倉庫係だった。近くの工場の塀に応募の張り紙があった。土曜日の午後だけ1度行ってすぐにやめた。体ががたがたになりとてももたなかった。倉庫係ということだったが、これは人足で、製品を倉庫から出しトラックに積み王子駅まで運んで貨車に乗せる仕事だった。
 
 石鹸は30×40×50cmほどの段ボール箱に入っていた。ぎっしり詰まっているので20から30kgほどあったのではないだろうか。20代の屈強な男と30代の運転手と私の3人で担当した。倉庫に積み上げてある箱を次々とトラック荷台に上げる。始め、肩の高さにある荷台に乗せるのは簡単だったが、積みあがってくると、その上に投げ上げないと乗らない。
 
 これはコツがいる。2人の大人はホイッ、ホイッと手軽に投げ上げていた。私がやってみるとうまくいかなかった。私のところで流れがとぎれる。運転手の指示で私はトラックの荷台に乗り込み、積み上がった箱のすきまを埋める作業に変わった。それでも集中的に力を入れるのですぐに肩で息をするようになった。
 
 男たちは口にはしなかったが「仕方ねえな」と思っていることがその態度でわかった。私は半人前のみそっかすであった。積み荷が終わると助手席に乗り駅まで行った。この時だけは一息つけた。15分ほどで駅につくと今度はトラックの荷台から貨車に積み荷を移した。
 
 これを2時から始めて5時過ぎになるまで3往復した。仕事が終わった頃にはクラクラしてなんだかうまく歩けなかった。運転手は「(おい、ぼうず)明日も来るか」と言った。私が黙っていると「きつかったら来なくてもいいぞ」と付け加えた。責める口調ではなく事実を指摘しているだけ、という言い方だった。
 
 私がうなずいて帰ろうとすると、少し待て、と言うように手で制して事務所の方へ行った。すぐに茶色い封筒を持って来て黙って差し出した。300円入っていた。「ありがとう、(ございました)」と残りの挨拶は口の中に飲み込んでごにょごにょ言うと、運転手はうなずき、男は「おつかれさん」と始めて口をきいた。
 
 翌日の日曜日も働く予定だったが、朝起きると体のあちこちがきしんでいた。昨日の運転手の言葉を思い出し、行くのをやめた。電話したかどうか、覚えていない。電話は家にはない。外の薬屋の赤電話が一番近い。歩いて5分ほどである。1回行っただけですぐにやめたが、まったくもめた記憶がないので、あるいは連絡しなかったかもしれない。
 
 私はまだ15歳になったばかりであった。体ができていないのに無理をしたのがいけなかったのだ。肉体労働は体が丈夫だったら、単純明快で悪くない。仕事中はつらいが、休みの時間は何もしなくても楽しい。ぼーとしてるだけでいい気持ちである。
 
 教員になって対人関係で気苦労ばかりしていると、何もしていない時もなんだかごちゃごちゃ考えていて、少しも休みになっていないことが多い。肉体労働はモノが相手だから、黙って体を動かしていればいい。問題は体で、積み荷作業を担当した男の右肩は脚のすねのように太い長い毛がびっしり生えていた。右肩ゴリラ状態である。こすれ合うところには毛が生えてくる、と初めて知った。体が変わっていくんだなあ、と思った。
 
 次のバイト先もやはり張り紙で見た。上野の駅の構内の売店鉄道弘済会の売り子である。今の言い方では、JRのキヨスクの販売員ということになる。       
 
 98.6.17

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 あとがき:もう、このあたりから私は誰とも相談せずに勝手にバイトなんか申し込んでいる。家の者は何も言わなかった。少なくとも反対された記憶はない。学校ではバイトは禁止していなかった、と思う。ひとたび校門をくぐれば、いろいろ言われたが、下校してしまえばどうしようと勝手である。バイト先でも高校生は採用しない、などと言われなかった。こういう事は「遺伝」するのかも知れない。

 娘は高校時代に下校途中のジョナサンに駆け込んで(募集の張り紙もしていなかった)勝手に交渉してバイトに入った。それがもう5年目になる。娘の高校ではとりあえずバイトは禁止していた。でも学校から文句を言われたことはない。バイトをして色々不都合はあったと思う。帰宅が遅い。翌日遅刻する。勉強をまるでしない。妻は女親だから、心配していた。私も気になったことはある。でもまあ、勝手にやって、という感じだった。自分のことを思い出せば何も言えない。それでいいのだ。(2001.6.16 )