私のバイト時代 (1) 

 浪人時代の次は大学時代に続くことを考えていたが、どうも気分が乗らない。そのうち教員になるまでにアルバイトをかなりやっていたのでそのことが思い浮かんだ。
 
 家族に仕事をいいつかってそのお駄賃をもらうのを含めなければ、私が初めて仕事をして報酬を受け取ったのは中学2年生になる13歳の春休みからである。北区滝野川明治通りに面したラーメン屋「大番」でアルバイトをした。それから始めて27歳に都立高校の教員として採用されるまで、いつも何かしら仕事していた。同時に学生でもあった。教員になってから、実を言うと副業めいたことをしたことはある。しかし今回はそれにふれないでおこう。
 
 だから私のバイト時代は1962年(昭和37年)から1975年(昭和50年)の14年間ということになる。正確に言えば、18歳の11ヶ月間は都立A工業高校電子科の実習助手をしていたからこの1年間は除くべきかもしれないが、この時も学校には内緒で短期間ビル清掃と家庭教師をやっていた。
 
 バイトを始めた理由は簡単で金がほしかったからである。私は小学校時代からラジオ工作に凝っていた。鉱石ラジオやゲルマニウムラジオを作っていた時は1日10円もらう小遣いを一月使わないで取っておいて秋葉原に行けばなんとか部品をそろえることはできた。王子-秋葉原が子供料金で片道5円の時代である。
 
 「初歩のラジオ」や「子供の科学」といった雑誌(これは小学校の理科クラブや中学校のアマチュア無線部で購入していた)の工作ページを見て、部品表とその値段を詳細に調べ、それを現地秋葉原のパーツ屋の前で確認して10円でも安い部品を買った。ところが中学2年生の時にアマチュア無線の免許を取ると自分の無線機がほしくなった。メーカーのものを買うよりは自作した方が安い時代だったが、とても月500円の小遣いではやっていけない。
 
 家でそれ以上は小遣いはくれないから、欲しければ自分で稼ぐしかない。中学生の新聞配達などはむしろ勤労少年として奨励されていた。中学生がアルバイトをすることに世の中は寛容だったのだ。
 
 大番に採用された経緯は記憶していない。真っ先に思い出すのは、狭い厨房と4人掛けのテーブルが3つほどある狭い店内の間に立って明るい外を見ている自分である。春の午後で入り口のガラスの引き戸から斜めに陽光が薄暗い店内差し込んでいた。客は誰もいない。入り口は明治通りに面していて、向こうの通りから横断歩道を渡ってセーラー服の女子中学生が下校してくる。
 
 彼女たちから店内は暗くてよく見えるわけはないのに、私は後ろめたく恥ずかしくなって、1歩厨房のなかに後ずさる。彼女たちの影が入り口を通り過ぎる時、店内がまた少しほの暗くなって元の明るさにもどる。私はほっと息をつきもとの位置にもどる。
 
 厨房の奥にいる店主が私の動きを不審に思わないか気にしながら、いいわけがましく痒くもない足をかがんで掻いたりした。そしてそういう自分がたまらなく嫌だった。
 
 この春休み、夏休み、冬休みと学校が休みの時を中心に、頼まれると土曜日曜もやった。1日いくらもらったかもはっきり覚えていない。200円ほどではなかっただろうか。それでも10日やれば2000円になり、3球ラジオの部品代位にはなったのではなかったか。さすがに家には入れなかったが、書籍や文房具を購入する費用はバイトでまかなった記憶がある。
 
 私からは中学には勿論届けなかった。あるいは保護者会の時などに、寝たきりの母の代わりに姉が担任には話していたかも知れない。
 
 98.4.7

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 あとがき:私が秋葉原に通っていた頃から40年以上たつ。当時は無線関係の店が、今はパソコンを主流に扱っているものに変わっていたりした。相変わらずのパーツの小商いの店も多い。中学時代に取得したアマチュア無線局の免許状は更新期間が過ぎて無効になった。昔のコールサインの再割り当てが始まった。その時、無効になったコールサインも復活できることになった。
 それは是非やりなさい、と勧められた。中学時代の部活の恩師である。私は、どうでもいいやと思っていたが、問い合わせ先まで親切に教えていただいた。いくつか書類を書き、送受信機を新規に購入した。久しぶりに行った秋葉原はだいぶ様子が変わっていた。電飾きらびやかな街に変貌していた。それでも、昔の名前で出ていますという店も多く、私の土地勘も狂っていなかった。小学生のころ、帰りがけに寄ったラーメン屋も、少し場所が移動して店の名前も変わっていたが、確かにある。値段は15倍ほどになっていた。(2001.5.26)