私のバイト時代 (17) 

 原宿のマンションの補修工事の時はわびしい思いをした。12月のクリスマスの時だった。外壁の工事で家の中はいつもどおり人が住んでいた。冬の夕暮れで分厚い黒い雲が空を覆っていた。風は無かったが気温が低かった。
 
 私は屋上から椅子の形をした一人用のゴンドラで作業箇所まで降下しているところだった。3階の窓の外を通る時、中が見えた。家族でクリスマスのパーティをするところだった。だいだい色の室内はそれだけで暖かそうだった。ガラスは内側から少し曇っていた。外は暗く寒く室内は別世界だった。
 
 若い母親がケーキを持ってテーブルの上に置くところだった。そこで顔を上げて私と目があった。美人だった。その若い母親は一瞬固まって、すぐに事態を理解したらしかった。私が軽く会釈してやり過ごそうと思った時、彼女はまるで何も見なかったように、意識して(私にはそう思えた)明るい笑顔で子供達に何か話しかけた。
 
 病弱だった私の母はすでに亡くなっていた。それでもつらい現場仕事が終わって一人帰宅するとき、元気だった頃の母の笑顔を思い浮かべ「ああ、ああ、寒かったろう」と言う母の声を思い出したりしていた。絵に描いたように幸せそうなその母親は私を無視したのだった。私は下を向いて椅子のところを握ったままゴンドラが降下していくのに耐えていた。
 
 現場のバイトをしていた20代の前半、私はほとんど屋外で過ごしていた。50歳の声を聞くようになった今、時折思い浮かぶのはそのころのことである。体が覚えているのだった。
 
 忘れられない情景もある。
 
 これも冬、青山ビルのことだ。よく晴れた朝のことだった。ゴンドラのワイヤーを確認しに屋上へ上った。かがんで点検し顔を上げると、スモッグに覆われた東京の空があった。その下にぎっしりと灰色のビルが立ち並んでいる。その向こうに銀色に輝く固まりがある。遠い希望のようににぶく光っていた。朝日を受けた東京湾だった。こんなところで海を見ることになるとは思わなかった。息をつめて立ち上がり、しばらく見ていた。
 
 松戸の高層ビルでは遠くに東京が見渡せた。東京の上空は暗い灰色にかすんでいた。その空の下、新宿方面に建築中の高層ビル群が小さく固まっていた。
 
 その西新宿の住友ビルの最上階も工事した。ゴンドラは屋上の台車に乗っていて、ワイヤーの安全確認はしなくてすんだ。下を見るとミニチュアのような車や人が動いていて、そこまで高くあがると現実感がなくなり、恐怖はそれほど感じなかった。
 
 打ちっ放しのコンクリートの湿った匂いのする砂埃でざらざらした床の上で着替えをし、昼食をとった。今でも歩いていて現場の外を通ると、その匂いがして妙に懐かしくなる。
 
 東京都内と近郊はその3年ばかりでほとんどまわった。一日の仕事が済むと良くオヤジさんに誘われて、現場近くの屋台や立ち飲み屋で軽く飲んだ。私は当時も今も酒は弱い。始めの頃、オヤジさんは何度も杯を勧めたが、私が飲めないのが分かると手酌で飲んでいた。
 
 職人生活の話はなかなか面白かった。若いときは、仕事が終わると女性が相手をしてくれるようなところへ寄ることが多かったようだが、さすがにそういう場所へ連れて行ってもらったことはない。
 
 勿論オヤジさんは結婚していて、中学生の男の子の双子がいた。「おい、ワシは酔った」という頃になると、立ち上がって勘定を払い外へ出るのだった。私は口の中でごにょごにょと「ごちそうさま、、」とつぶやいたりした。
 
 給料日に大井町にあるオヤジさんの家でごちそうになったこともある。オヤジさんはビールをサントリーのレッドの大瓶で割って飲んでいた。それが安く早く酔える飲み方のようだった。
 

 99.3.9

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 あとがき:「ワシは酔った」という前にオヤジさんが必ず言うことがあった。「おい、**」と私を呼び捨てにして「世の中、くだらないヤツが多すぎる」と吐き捨てるように言った。それは世の中すべてを相手にして、お前たちはくだらない!と断言する言い方だった。憤懣やるかたないという口調である。
 私は黙って聞いていた。話の流れとは関係なくふと黙ったかと思うと、唐突にこの激しいつぶやきは吐き出された。下手に同意することはできなかった。この「くだらないヤツ」に渡り職人はもちろん入っているが、私も入っているかも知れないのである。私が黙っていると、オヤジさんはひとりで激昂した自分に気づき、照れ隠しのように「ワシは酔った」と収めるのだった。
 私もこの当時のオヤジさんの年齢になった。帰宅する通勤電車の中で車内の雑誌広告を眺めていると、突然このオヤジさんのつぶやきがよみがえる事がある。奥歯、噛みしめ体中こわばらせて「世の中、くだらないヤツが多すぎる!」と言うその声が聞こえる。(2001.9.15)