私の住宅事情 (5) 

  小笠原には3年いた。内地に戻ってくるときに、高校の卒業生と結婚する。私が赴任したとき彼女はすでに卒業していたので、直接教えたことはない。結婚式はしたくない、と妻が言うので届けを役所に出しただけの結婚だった。島にいる妻関係の親戚を集めて妻の実家(と言っても団地の一室)で食事をして顔見せをした。内地に戻ってきたときに、私の友人が会費制のパーティを開いてくれた。そして私の親戚を集めて中華料理屋で食事をした。子どもができたときに証拠がないとかわいそうだから、と平服のスナップ写真を撮った。女の人はそういうことを考えているのか、と少し驚いた。
 
 私は30歳になっていた。島の生活も面白かったが、私にはあるプランがあった。もう1度大学に入り直して、精神科医になろう、と思っていた。そこで定時制高校を希望した。当時の教頭は「島で苦労されたのですから」と全日制の異動を勧めてくれたが、私の気持ちは変わらなかった。
 
 3月末から4月にかけては多忙を極めた。妻とは2週間で結婚を決めたので、ほとんどつき合ったことがない。私はおおむね片思いばかりしていたから、女性とお付き合いといえるようなことをしたことがなかった。
 
 予備校は午前部、仕事は夜間定時制、その両方の通勤通学に便利な場所に住む必要があった。その中間にあるターミナル駅から私鉄の沿線に沿って一つ一つ駅を降りて飛び込みで駅前の不動産屋で物件をさがした。島からの荷物は家族のいる福寿荘に入れた。私と同じく妻は内地の姉の家に自分のものを置いていた。予備校の入学試験、その手続き、転勤先の手続き、転居届、など転居と転勤と入学が一度に重なった。春休みはほとんどその処理に追われた。
 
 毎日、駅で待ち合わせて不動産屋巡りをして、ついでにデパートや家具屋に寄って家具や電化製品や家庭用品などを見て回った。最後に喫茶店などで作戦を立てた。結婚してからデートし始めたようなものである。話題は経費と間取りと周囲の環境といった散文的な内容である。私には家賃と場所だけが問題だった。寝る場所と勉強できる机が一つあればいい。妻には妻なりにいろいろプランがあるようだった。予算の範囲内なら全部妻のいいようにして構わない、すべてお任せ、と私は思っていた。
 
 それでは妻はご不満のようだった。「後から文句言わないでよね」と言っていたが、二人で検討しながら決めたいようである。片思いをしていた頃は、ただ遠くから憧れてため息をついていれば良かった。いざつきあい始めて見ると、いろいろ厄介なことが持ち上がってきそうな気配である。
 
 結局、勤め先に近い新築のアパートに落ち着いた。6畳4畳半に4畳ほどのDKがついていた。6畳にはセミダブルベッドと洋ダンスと事務机と本棚、4畳半にはステレオと電話とテレビ、DKには冷蔵庫、食器棚などが入り標準的な新婚家庭といった雰囲気になってきた。
 
 私は7時前には起きて、1時間程かけて予備校通学、午後1時過ぎ帰宅、昼食仮眠、夕方勤務に出て11時前に帰宅、翌日の予習をして午前1時頃寝ていた。結婚前にもう一度大学に通う、という計画を話すと、妻はご自由に、という感じであった。ところがいざ新婚生活が始まってみると、新婚とは名ばかりで、夫は家で受験勉強と寝ているだけである。
 
 休日はクラブの引率と模擬試験でつぶれた。妻はほっておかれている、と思ったのであろう、1度もめた。妻は「もう、期待しない」と宣言すると、駅前商店街の書店のアルバイトを始めた。私もその方が都合が良い。1日アパートの一室でくすぶっているよりずっといい、と勝手に思っていた。妻には妻の結婚生活のイメージがあったのかもしれない。私は自分のことに夢中でそういうことを思いやる余裕がなかった。
 
 1年予備校に通い東大に入学する。最難関の医学部に入るには少し成績が足りなかった。入学後にまだ可能性があり、通勤可能なところはそこしかない。勤務先には内緒にしていた。校長に話しに行くと「聞かなかったことにする」と言ってくれた。20年前の話だから時効であろう、ついでに白状すると、もう一つ通信制の大学にも籍を置いていた。数学の教員免許を取るためである。通信制とはいえ2重学籍は禁止する、と募集要項に書いてあった。これは5年かけて修了した。
 
 その7月に妻が妊娠した。娘は翌年の2月に産まれた。産院の病室から大学の期末試験を受けにいき、とって返して勤務先の入試の採点業務を終え、そのまま病院に寄る、といった自転車操業で駆け抜けた。予備校がやっと終わったと思ったら昼間は東大生、夜は定時制教員で相変わらず結婚生活の実態は何もない。
 
 それでも私には生涯最良の時期だったと思える。勤めから帰り翌日の語学の予習をしていると、妻が生後4か月ほどの娘を入浴させている。娘は声を上げて笑っていた。
 
  菖蒲湯を満たして妻の子守歌

 

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 1999.12 

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 あとがき:ここには2年3ヶ月住んだ。契約を済ませ鍵を受け取り初めて部屋に入った時のことを憶えている。3月も末の春の暮れだった。家具もなくガランとした新築のアパート。新しい畳の匂い、木の匂い。隣の庭の白木蓮、窓を開けて灯りも点けず暗くなる宵闇の中で大の字に寝ころんだ。小笠原から持ってきたラジカセが1台。小さくFENをかけた。
  This is far east network TOKYO.
アメリカ訛のアナウンスを聞いた。このラジカセは当時の最新機でAM-FMラジオとカセットテープが使えた。ステレオで4スピーカーであった。都立大学の近所、碑文谷にできたダイエ-の開店セールで購入した。6万5千円したと思う。

  今では同じ性能の大きさも1/4程度のものが1/10の値段で入手できる。SONY製である。このラジカセには愛着があり、その後1度モノ好きな電気屋で修理した。修理対応年限が切れてSONYでは対応しなかった。法外な費用がかかった。
 現在は私の勤務先のロッカーの上にある。狭い家では邪魔になり、災害時などの緊急情報用においてあるが、携帯電話があれば無用の長物である。今年中に廃棄するつもりである。未練はない。(2001.5.12)