私の住宅事情(1)

 「半世紀生きた人になっちゃうね」妻が言った。そうなのだ。私は3月3日で50歳になってしまった。まったくだまされたような気がする。気がついたら勝手に向こうから年が寄ってきて、そういうことになってしまったのだ。まあいい、そっちがその気ならこっちも勝手にやるだけである。
 
 私は現在都立高校の生物教員である。妻は5歳年下、娘が一人大学受験の発表を待たずに浪人が決定している。高校3年間を部活とバイトに明け暮れた彼女が合格するわけがない。さっさと予備校の手続きを済ませている。一人っ子の核家族である。だが、私自身は5人兄弟の末っ子で7人家族の中に育った。
 
 この半世紀の間に私は9回転居して、10カ所の住まいで暮らした。すべて東京都内である。このエッセイを書く機会を与えられたので、その引っ越し歴を振り返りそれぞれの家での暮らしを思い起こしてみたい。
 
 1.板橋区小豆沢(1949-1953)
 2.豊島区池袋 (1953-1955)
 3.北区滝野川 (1955-1964)
 4.北区王子  (1964-1976)
 5.品川区鮫洲 (1971冬)
 6.文京区千石 (1971春夏)
 7.小笠原父島 (1976-1979)
 8.清瀬市清瀬 (1979-1981)
 9.三鷹市新川 (1981-1994)
 10.三鷹市下連雀(1994-)
 
 現在の住まいを除いてすべて間借りである。そのうち8つは取り壊され、現存していない。それ故以下の話は私の記憶に頼ったものであることをお断りしておく。始めの2つは、私が小学校に入学する前のものなので、ほとんど記憶にない。
 
 父は千葉県九十九里浜の北寄りにある旭市足川の出身である。生まれは明治30年代で、上京して当時の工業学校を出て、都の公務員になる。30歳にして「ハンコ押してばかりいる生活」が嫌になり、独立して小さな鉄工所を起こし、一時は大儲けをしたという。「革のトランクに500円札がびっしり詰まっていて、修ちゃんに見せたかったよ」と母は言っていた。
 
 母はなんでも旗本の血を引く「お嬢さま」で勤めに出たことはなくおっとり育ったらしい。私は長さ30cmほどの短刀が家にあったのを憶えている。子女が辱めを受けたときはそれで自害するためのものだという。太平洋戦争が終わって疎開先から帰ってくると自分の家はすでになく、土地は戦後のどさくさで人の手にわたっていたらしい。
 
 父の事業は倒産し、つてを頼って電気会社で働いていた。基本的には真面目な男で復興していく世の中でうまく立ち回ることが出来ず、貧乏暮らしをしていた。住所が転々としているのも、いわば没落の証かも知れない。
 
 今回図示した住まいは私が小学校1年生から高校1年の夏まですごした所である。1階はモーター屋でその2階の3部屋を3つの所帯が間借りしていた。私が10歳の時は、父57、母53、長女28、次女23、三女17、長男13、だったはずで、この7人家族が8畳一間に住んでいたことになる。
 
 40年後の私は敷地17坪とはいえ、4畳6畳の2階に下は12畳ほどのLDK3部屋に私50、妻45、娘18、の3人で住んでいるので、はなはだしい違いである。
 
 昭和30年代を過ごしたこの住まいでは、流し、便所は3所帯13人で一つである。ガスは共同の流しのわきに2つ、私の部屋に1つあった。自分の家族はおろか、他の家庭のことも考えながら気兼ねしつつ使うのである。朝の便所の争奪戦は激しいものであった。トイレなどという言い方ではなく、ご不浄、お手洗い、などと言っていた。くみ取り式で月に一回ほどバキュームカーが来ていた。2階にあるので、上からのぞくと下は暗くその暗闇から得体の知れないものがわき出てくるようで怖かった。
 
 風呂はもちろんなく、皆銭湯に行った。私が始めて内湯を使うのは27歳の小笠原の宿舎である。炊事は廊下突き当たりの流しから自室のガス台までお釜や鍋を運んだ。一升炊きの出来る大きなお釜で米飯を炊き、その後で魚を焼き、みそ汁を作った。換気扇などないから、室内に煙が充満した。
 
 朝食は 弁当の都合もあって、米飯が食べられたが、夕食はうどんやそばですますことも多く、そのたびに私はがっかりした。学校の給食はパンが多かったので米飯に飢えていたのである。カレーライスは大変なごちそうに思えた。
 
 お寿司などは、親戚の人が来たとか、特別なときで年に数度しか口にしなかった。小学生の時、親に連れられて始めてそば屋のざるそばを食べたとき、こんなうまいものが世の中にあるのか、と感動した。
 
 電化製品は真空管式のラジオとアイロンぐらいで冷蔵庫、洗濯機といったものはない。じゃがいも、たまねぎなどは室内に保存したが、後は毎日乾物屋に買いに行くのである。毎朝自転車に乗った豆腐屋が来て、油揚げ、納豆もそこから買った。洗濯はたった一つの流しで洗濯板に洗濯石鹸を使った。少し離れた外に共同の井戸があり、そこを使うこともあった。

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 1999.3
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 あとがき:FHJ(Future Homemakers Of Japan)は全国高等学校家庭クラブ連盟というところが発行している。高校の家庭科(の先生)が所属する教育団体で、20ページほどのA4版小冊子である。昭和29年第三種郵便物認可だから歴史はある。

 手元にある1999年10・11月号の表紙を見ると、第13回ホームプロジェクトコンクール入選発表・私達の活動・留学生だより・エッセイ・みんなの手相・FHJゼミナール・クッキング、などと項目がならんでいる。高校生を対象にした家庭科の教材誌といえる。ホームプロジェクトコンテストの審査員を列挙する。国立感染症研究所名誉職員・東京大学名誉教授・元環境庁事務次官・東京都立富士高校校長・文部省初等中等教育局視学官・埼玉県立浦和第一女子高校教諭・東京都立九段高校教諭・味の素株式会社副社長・女子栄養大学教授で、この冊子の性格を表している。

 そこへ「私の浪人時代」の作者がエッセイを連載したのである。私のページだけが浮いていた。編集者も頼んだ手前、途中でやめるわけにもいかず困ったのではないだろうか。1年で打ちきりになった。原稿料もいただいた。1回分で1泊旅行ができるほどの額だった。ありがたいことである。私は分担執筆で書店にならぶような本に原稿を載せたことがあるが、このFHJ誌の掲載は6回分でその時の2倍ほどの原稿料になる。すぐ銭勘定に気が回るところは私の育ちの悪さの表れであろう。気になるんだから仕方がない。(2001.4.14)