１９７６年の３月の記録を続ける。
１４日塾講師最後の日。能力開発センターという小中学生向けの塾である。事務所に行くと、まだ３０代の社長が「どうもお世話様でした」と労をねぎらってくれた。私は結構評判が良かった。その後、例の友人Ａと銀座の画廊で個展を見た。なんでもＡの「女友達の男」の画家ということだった。そのままＡの千石ハウスに泊まる。私の住宅事情（３）でふれた文京区の家である。
１５日暖かい春風が吹き渡った。私は香川知子のことを考えて妙にうきうきしていた。目黒に開店したダイエーでＳＯＮＹのラジカセを買った。これは未だに捨てられず職場のロッカーの上にある。当時としては４スピーカーステレオの最新鋭機だった。４７９００円。教育実習を共にした人たちに電話をかけまくった。ＮＨＫＴＶに出ていたＮ女子大の美人キャスターは議員の秘書におさまったということだった。いかにも、と思った。静岡まで採用試験を一緒に受験したＴさんは海外旅行へ行って留守だった。就職が決まる
前に遊んでおこう、ということらしかった。同じ滝野川中学の卒業生は就職が決まっていなかった。それでも明日からスキーに行くとい。皆、私とは身分違いのお嬢様ばかりである。ただ一人四国から上京して寮に入っていたＫ子はさらに福祉の学校へ行きたい、と言って親ともめていた。唯一の男子学生「おかま神主」はいなかった。その後で香川知子に電話したが、出なかった。
１６日登校すると、学生室にＫがいた。知子は「かっこう」にいるという。喫茶店かっこうに行く。彼女の前の席は空いていた。そこに座ると彼女はバッグから黙って手紙を出した。受け取ると、読めという仕草をした。手紙の内容は思い出せない。この日も一緒に帰った。彼女を送っていく途中で吉祥寺で降りた。fifty-fiveという店に入ったと記録にある。おそらくジャズ喫茶であろう。私は「フリ込んでもいい」と口走った。「どういういこと？」と彼女は聞いた。「結婚してもいいと思って」と返事した。ずいぶん軽いプロポーズである。そういうことを言ってみたかっただけだと思う。彼女は黙ってしまった。困っているようなのだ。そこから会話が少なくなった。しばらくして店を出た。電車に乗る前に「ツモったのに上がらないの」と言ってそのまま豊田行きに乗ってしまった。いつものようには振り返らなかった。
１７日私は彼女に手紙を書いた。大学に行くと遺伝学教室で餃子パーティをやっていた。遺伝学教室はいつも和気藹々としていた。廊下を通りかかった私は呼び込まれた。卒業生を中心に１０人ばかりがお別れ会のようなことをしていた。現在このメンバーのうち４人ほどが大学教授になっている。免疫学のことで議論したＭは東大教養学部の助教授である。
１８日彼女から手紙が来た。今結婚はできない。これまで通りつき合ってほしい。そんな内容だった。了解した旨短い返事を出した。結婚と口走っただけで、現実的なことは何一つ考えていなかった。手紙の文面から、彼女が真剣に考えた末の結論だということはわかった。正直に言えば、たじたじという感じである。わかりました、という以外の返事は出しようがない。
大学に行っていつものことをした。愛子が裕子は３１日に結婚するという情報を教えてくれた。私の出航の日である。何度か会って横浜のジャズ喫茶店に行ったことがあった。今となってはとても出席するような間柄ではない。それでも私はショックを受けていた。女の人はみなこうやって、現実的具体的にものごとを決断していくんだ、そんな感想が浮かんだ。もちろん愛子の前では「へえ、そうなんだ」と軽く受け流していた。夜は荻窪白頭山で飲み会だった。和光大学の卒業コンパである。終電が過ぎるまで大騒ぎをして、私はＡの家に泊まった。
１９日は冬のように寒い日だった。保谷の小笠原高校の教頭の家で４月に新しく赴任する教員が５人集められ、着任の注意を受けた。現職２人、新採は私も含めて３人だった。うち女性は１名である。それから大学に行き、家庭教師に行った。夜、香川知子から電話がある。お互い言葉に詰まり、ため息をつくばかりで無言のままなかなか電話が切れなかった。２日後に会うことを約束する。
２０日Ｓ氏の家に行く。彼とはいまだにつきあいがある。もう２６年たつことになる。その後中学の恩師の主催でお別れ会に呼ばれた。場所は王子の寿司屋だった。夜の１時半までやっていた。
２１日昨日の恩師の娘さん（当時中学１年生）に「火の鳥」をプレゼントする。そんな話が昨夜出たのであろう。そのあと国立で香川知子と会った。結局送っていって彼女の家に上がり込み母親と話をした。帰りは寒く、何故か暗い気持ちになった。あれほど望んでいたのに、いざ現実的に親しくなると、もう私は何もかも放擲して穴蔵に一人引き籠もってうずくまっていたいような気分になるのだった。
2002.9.16
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