私の浪人時代(20)

 生徒にしてみれば、まったくいいことを考えたつもりだった。私は事態がそういう風に進むとは全く考えていなかったので狼狽した。自分の中だけで完結している話のつもりだった。計算してみると君子さんはもう40代の半ばのはずである。私の妻より年上になる。
 
 私の中では君子さんは高校3年生の受験生であった。どうも話が飛びすぎて自分の中で収集がつかない。私はその生徒を進路相談室に呼び30分ほど説得してあきらめてもらった。だから「*君子」というのは仮名である。初めの版では実名だったが、このことがあって変えたのである。
 
 年が明けて、いよいよ入試が近づいてきた。試験は当然昼間行われるから、昼夜逆転の生活をやめなければならない。生活のリズムを作っていた京王デパートの仕事をやめると最後の試験に向けて準備を進めなければならなかった。
 
 宅浪(自宅浪人の略)になって困ったのは、手続きをすべて自分でやらなければならないことだった。まず身体検査を受けなければならない。どこかに所属していたときはそこの健康診断で代用できた。予備校では書類一式そろえてくれた。私はただ言われることをやっていればよかった。
 
 今度はそうはいかない。保健所の電話番号を電話帳で調べて大学入試用の健康診断を行っているか問い合わせることから始まってこまごまとした現実的な事務処理をしなければならなかった。私は自分が世の中から外れているように感じていたから、そのいちいちに難儀した。書類がきちんとできあがるまでとても不安だった。一覧表を作ってなんども確認した。願書は下見も兼ねてそれぞれの大学まで取りに行った。区役所で住民票が必要だった。それも取りに行った。
 
 今度落ちたらもう浪人を続けるつもりはなかった。かといって他に何の考えもない。姉に相談して私立大学も1校だけ受けることにした。理科系で一番学費の一時金が安かったのは東京理科大学(数学科)であった。その他に都立大学、もし1次試験を落ちたときために千葉大学教育学部数学科、受験日がずれていて受けることの出来る横浜市立大学(倍率は40倍あった)2期校の埼玉大学。結局5つ願書を出すことにした。
 
 浪人時代に出来ると思っていたのは数学であった。当時、数学科は理科系の最難関である。生物科、地学科の偏差値は低かった。地学は避けたかったので生物科を受けることにした。ともかく目先の偏差値が低くて入れそうなところに願書を出したのである。
 
 私は教員になって進路指導上いろいろ進路の話をしなければならない立場にある。だが、自分のことを考えると、まっとうな進路の本に書いてあるのとはまったく逆の例である。こういう進路のきめかたをしてはいけない、という見本のような進路先の選択であった。 
 
 97.6.20

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 あとがき:受験シーズンである。新聞には、まずこのメールマガジン発行日のセンター入試の受験場の写真が載る。次に願書提出の行列の写真。これは私立中学の出願風景。寒い中を親御さんが並ぶ。次が合格発表風景。これは東大本郷とだいたい決まっている。最近の合格発表は郵送だったり、掲示するのも受験番号だけだったりしてすたれていく傾向である。最後が週刊誌の合格特集でこれは4月初旬ごろまで続く。明治時代からこの「受験」システムは延々と続いているが、私の属する「団塊の世代」から本格化した印象がある。その頃をことを振り返ったのが「私の浪人時代」なんだ、と考える事もできる。(2001.1.20)