私の浪人時代Ⅱ(5)

 予備校の授業は午前中だけ出て、アパートに帰る。昼食を食べて時間があれば昼寝して勤務先に行った。自転車で10分ほどの距離であった。夕食は定時制の給食を食べたから、家で妻の作った食事をするのは休日を除いては昼間だけである。
 
 その後私は12年間この定時制高校に勤務して、その後現在の勤務校に異動したがやはり3年間給食を食べて過ごした。結婚後15年間夜は勤務先の食堂で食事をしたことになる。この食生活が特に不満でなかったのは、このシリーズで前述したように母親が寝たきりだったので、そこら辺にあるものを食べて過ごして育ったからで、食事とはそういうものだと思っていたのである。アルコールに弱い体質で、晩酌など思いもつかなかった。
 
 定時制の授業は9時に終わった。それから1時間ほどクラブの面倒や雑用をして、10時過ぎに帰宅する。そして予備校の予習を済ませ12時頃には寝ていた。結婚前は「どうぞご自由に」と妻は思っていたようだったが、さすがにここまでほって置かれるとは予想外だったようで、少しモメた。
 
 予備校生活も慣れてきた、たしか6月頃のことであった。私がいつものように予備校から帰ってくると妻がいなかった。特に書き置きもなくちょっと買い物にでも行ったのか、と思って少し待ってみたがなかなか帰って来ない。
 
 仕方なく目玉焼きを作って冷や飯に乗せて食べた。空腹だとイラだってくるのでまずそれをおさめた。それから、一体どうしたのかと心配で不安であった。勤務に出る少し前に妻は帰ってきた。無言であった。どこへ行ってきたか聞くと、パチンコに行って来た、と不満そうに答えた。私はすぐにカッと来て「リコンする」と言った。
 
 AB型は瞬間湯沸かし器だというのが血液型占いの診断である。妻も直ちに反応した。一人で家にいるのはつまらない、というのである。私は面倒になって、行ってくる、と言って勤めに出た。
 
 私は女性とつきあったことがなかったので、結婚はしたものの、自分の仕事と受験で頭がいっぱいで、妻が何を考えているのか、思いやる余裕がなかった。今考えて見れば、無給のお手伝いさんを雇ったような気でいたのであった。
 
 どうもそういうわけにはいかないようだ、と仕事先で考えた。それにしても「リコン」とは言葉がまずかった、と思ってみたが、当然、自分から謝るわけにはいかない。そもそも専業主婦にして、夫が帰ってくるのに、昼食を用意もせずにパチンコに遊びに行くとは何事だ、とかどこかに書いてあるようなことも思いつくのだったが、そういう事態でもなさそうなのはすぐわかる。
 
 何しろ「リコン」と口走ったのである。私は内心の動揺がさとられないように、平然を装って帰宅した。       
 
 97.12.5.

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 あとがき:「ほんとに延命処置しなくていいからね」と妻が言った。炬燵に入ってバガボンドを読みながら。寝たきりになったらどうするか、という話題の続きである。妻の父親は7年前に多発性脳梗塞を起こし、2年ばかり老人病院をたらい回しになった後で亡くなった。その時私は、生きている人にあまり負担をかけてもなあ、と思った。「もう充分楽しかったからいいや」と妻は続けた。この浪人時代Ⅱから20年たっている。(2001.3.3)