私の浪人時代 Ⅱ(1)

 昭和42年(1967)3月に王子工業高校を卒業して昭和45年(1970)4月に東京都立大学に入学するまでの3年間を私の浪人時代の第一期とすると、第二期は昭和54年(1979)4月から昭和55年(1980)3月までの1年間である。
 
 6年かかって都立大学を卒業した私は都立高校の採用試験に合格し東京の最僻地である都立小笠原高校に赴任した。そこで3年勤め上げた後内地に還ってきた。異動先は埼玉県の県境に近い久留米高校の定時制だった。私の計画は次のようなものであった。夜は定時制高校に勤め、昼は予備校に通い東大の医学部(理科3類)を受験する。めざすは精神科医である。だが動機に欲があった。東大出の精神科医というのが第一目標で、東大と精神科医のどちらが欠けてもいけなかった。この欲は後まで尾を引くことになる。
 
 島を離れる直前に結婚した。婚姻届を村役場に出したのは私が20代最後の3月2日であった。相手は小笠原高校の卒業生である。彼女は私の赴任前に卒業して内地の電々公社(NTTの前身)に勤めた後、宇宙開発事業団に転職し父島の人工衛星追跡センターに勤めていた。私は直接教えたことはない。5歳年下であった。
 
 彼女の私に関する第一印象は「一度見たら忘れられない顔」というものである。それに「これはイカレだと思った」が加わる。そういう男と結婚する女性はやはり謎である。結婚前に私の計画を話すと、彼女はふーんといった様子で黙って聞いていた。私はもう少し別のリアクションを期待していた。
 
 だって「夢のある男性がいい」などと若い女性はよく言っているではないか。私はその「結婚相手に夢を語る男」というのをやってみたかったのである。彼女は否定も肯定もしなかった。どうぞご自由に、といった感じである。
 
 当時小笠原高校の事務職員であったTさんに業務出張のついでに駿台予備校の入学試験の申込を依頼した。竹芝桟橋に船の着いた翌日の3月末に四谷の上智大学で予備校の試験を受けた。
 
 駿台のクラス分けは東大の科類そのままの名称を使っていた。第1志望の理科3類は不合格で第2志望の理科1類になんとか合格した。年間の学費は26万円ほどであったと思う。地方公務員3年目の私はもはや授業料では苦労しなかった。学生証番号がその時の成績順で966番だった。それがそのまま教室の座席順になっていた。
 
 250人ほどが1クラスだったので理1の1番下のクラスであった。黒板から遠い後ろの席である。校舎はお茶の水の本部校舎で、そこに1年間通った。勤め先でも新人で30歳の新婚の受験生ということになる。これから先もういいことはないだろうから、この1年をわが生涯最良の年と呼べるであろう。
 
 97.9.14

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 あとがき:上智大学駿台予備校の入学試験を受けた日のことは良く憶えている。春の日差しが暖かい日だった。四谷の陸橋の上で私は鼻歌気分だった。Bob dylanの fore ever youngという曲。ディランは例のダミ声で歌っていた。

  fore ever young, fore ever young, May you stay, fore ever young

 サビはそういう歌詞だった。30歳になってまた大学受験をしようというのである。たしかに「いつまでも若く」という気分だった。問題は英数国の3教科で数学で1題わからない問題があった。logxの不定積分である。部分積分法で解く。その程度の受験力で良く東大入試をたくらんだものだ。(2001.2.3)