私の浪人時代Ⅱ(3)

 朝起きるのは6時半。7時半にはアパートを出た。新築2DKの錦翠苑という焼き肉屋のような名前の203号室である。モルタル2階立てで前の道路が埼玉県との県境であった。ここには1年と3カ月しか住まなかったが、さすが我が人生最良の年である。電話番号から住所まで今だにはっきりおぼえている。
 
 新婚の妻は、弱点はあるが気だてのいい女である。弱点の一つは病気を呼び込む体質であった。低血圧、アレルギー、喘息気味、偏頭痛といろいろあり、いつもどこか具合の悪いところをかかえていた。
 
 当然宵張りの朝寝坊だから、朝は私一人のことが多かった。朝食はタイマーでセットされた炊飯ジャーの米飯に生卵1個かけてかきこみ歩いても10分とはかからなかったが時間が惜しいので自転車で西武池袋線清瀬駅まで走り、池袋、地下鉄丸の内線でお茶の水、と電車を乗り継ぎ予備校に通っていた。ほぼ1時間である。
 
 予備校の本部校舎は大きな事務所のようなビルで入り口に教務課の職員が立っていた。駅の改札で定期券を見せるように、生徒証をその男の前でかざして中に入る。1階は事務室、講師室があり2階から教室になっていた。
 
 小さなエレベーターで4階まで上がる。教室配置も成績順で出来る生徒は下の教室になっていた。300人はいる教室はさすがに大きかった。黒板も横長のワイドサイズなら黒板消しも2倍の長さで、休み時間に用務の職員が2往復ほどするとあっさりときれいになった。それは驚くほどあざやかな手順で、どんなところにもプロはいるもんだと思った。
 
 午前部のクラスの座席は決まっていた。幅の狭い4人がけのベンチ椅子に並んで座る。机も4人分がつながっているから、自分の分はB5のノートを広げるとほぼ一杯でテキストはその上に重ねなければならなかった。肩身が狭いとはこのことである。当時の東京の3大予備校は、講師の代ゼミ、生徒の駿台、机の広さは河合塾、といわれていた。確かに机は狭かった。午後は選択授業、人気講師の授業は早い者順に前から席がうまった。
 
 講師は1時間目2階、2時間目3階、と下から上に移動しているようだった。時間割がそう組んであったのであろう。教員になってわかったが同じ事を何度も話すのは疲れるものである。始めと2回目ぐらいが新鮮で自分も気分がのって授業が出来る。授業の内容も講師の疲れに応じて成績順に組んであったのだと思う。
 
 学期は前期、後期の2期制で前期の総合成績順にクラス替えがあった。入学時966番だった私は後期は405番になり2階の教室うつった。受験雑誌には浪人すると成績の上がるのは始めだけで3浪、4浪(さすがに最近はいないが)になると学力が下がらないように維持するのがやっとである、などと書いてあるのを見るが、私に言わせれば大ウソである。私はすでに13浪相当であった。        
 
 97.10.24

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 あとがき:わが人生最良の年、と書いたが1980年代は現在の日本のトレンドがほぼ出そろった年でもある。この年はインベーダーゲームが喫茶店のテ-ブルゲームとして導入された。NINTENDOUはまだゲーム業界に参入していない。ドリームキャスト撤退をきめたセガはヘッドオンを出していた。松任谷になったユーミンは「流線型'80」「OLIVE」「悲しいほどお天気」と名盤を立て続けに出していった。ポップスの帝王、サザンオ-ルスターズのデビューもこのころである。そういう世の中で、もう若くない私は受験勉強をしていたのであった。それが、わが人生最良の年なのだから、私の人生もたかが 知れている、ということになる。これを書いた今もこの感想は変わらない。最近はいかに人に迷惑をかけずに死んでいくか、ということを良く考える。炬燵生首をやりながらカウントダウンTVを見ていた妻が「延命処置はしなくていいからね」と言った。敵もそういうことは考えていると見える。私は「一応聞いておく」とこの原稿を書きながら答えた。 (2001.2.17)