私の浪人時代(21)

 仕事もやめ、福寿荘北向きの4畳半に夜いることになると暖房が大変だった。部屋が片づいていれば石油ストーブを入れるのが普通であるが、とてもそんな余地はない。申し訳程度についている流しの脇のガス台でやかんで湯を沸かして暖を取ることにした。
 
 沸いた湯は湯たんぽに入れて足下に置き、さらに水を足し沸かし続けた。すきま風で部屋が冷え、丁度目の高さの所に寒暖の不連続面が出来て上部は霧が立ちこめていた。部屋の壁はその湿気で水滴が出来た。強力な停滞前線が4畳半の空間中央に出現した。
 
 その中で試験直前の仕上げをやった。3年目になるとやることは決まっていた。それまでに受けた模擬試験を取り出し、出来なかったところを中心に復習した。そうやって1日1日つぶしていった。
 
 東京理科大学の試験は2月の終わりにあった。神楽坂の本校で受験した。英語数学物理の3教科でとりあえず答案は仕上げた、という感触だった。1週間もしないうちに発表があった。合格していた。これで4月から浪人でない、と思うと一安心だが生活のめどが立っていないので、気は抜けなかった。姉に出してもらって入学の1時金を納めた。
 
 3月に入ると続けて試験があった。都立大学の1次試験がまず始めにあり、これも合格した。千葉大学は願書を出しただけで受験できないことになった。続いて2次試験、その発表の前に横浜市立大学文理学部生物学科の入試があった。
 
 いずれも目の前にある答案をなんとか仕上げるだけで、流れ作業のようだった。終わっても合格するかどうかの判断はまったくつかなかった。一つには全部落ちても理科大にいけばいい、という安堵感もあったと思うがすでに4回目の受験で試験をうけることだけには慣れたこともあったと思う。
 
 3月中旬の横浜市大の入試が終わってからどう時間をすごしたかおぼえて
いない。本来なら埼玉大学の準備をしなければならないのが、そのことは頭になかった。
 都立大学の発表を見に行った時は夕方になっていた。合格掲示板に夕陽が差し込んでオレンジ色に染まっていたのを覚えている。合格していた。この時は力が抜けた。やっと受かったのである。浪人1年目に漠然と思っていた「大学に入れば楽しいことがありそうだ」とはもう思えなかった。3年の浪人生活はさすがに長かった。もう受験生でいなくてよい、という感慨だけが確かなことで他のことは何も思いつかなかった。
 
 手続きだけはぬかりなくやっておかなければならない、と頭の片隅で確認していた。ともかく終わったのだ。横浜市大の発表は見に行かなかった。やはり横浜市大を受験して都立大の生物に入学した女生徒から、私が合格していたことを後から聞いた。
 
 神経衰弱でよたよた1年間すごしたが、3戦3勝である。それから2年落第して卒業するまで6年かかった大学時代が始まるのであった。 
 
 97.7.8

━━━━━━━━━━━━━━━
 あとがき:かくして工業高校を卒業して3年かかった浪人時代は終わる。私が東大受験をするのは、ここから10年後である。このシリーズを読んでくれた同僚のカウンセラーは、それは「未完の行為」と言うんだよ、と教えてくれた。心理学にそういう言葉があるという。果たせなかった過去の願いが様々な意味で現在の人生に影響する、そんな風に私はその用語を受け取った。クラス通信に載せたこのシリーズも一段落ついたので、30部ほど印刷して小冊子にした。 次号はその時つけた資料を掲載します。
 
 その次からは episode.3、私の浪人時代Ⅱに入ります。

(2001.1.27)