私の浪人時代Ⅱ(7)

 10年前の3浪の時と違うのは予備校に負うところが大きい。健康診断から始まって願書の取り寄せ応募の期間、と一つ一つ全部自分で確認しなければならなかったが、そういうことはすべて用意されていた。私はただ言われるままに動いていればいい。
 
 模擬試験も予備校の校内試験ですませていた。模試の母集団は同じような大学を希望していたから、その結果は信頼度が高い。受験に必要な情報はすべて手に入る。毎日あきもせず通っていればいいのである。
 
 通うところは同じ「学校」とはいえ教える立場と学ぶ立場との精神的な負担はまるで違う。端からは気楽そうにみえても教員はやることを自分で決めて動かないといけない。相手は人間であるから、おおむね思い通りには行かない。
 
 仕事にかかるには「やるぞ」というある種の気合いが必要であった。ところが予備校では座って話を聞いていればいい。問題を考えるのは慣れもあり、嫌ではなかった。それに答えが合うとうれしいのでヒマつぶしと考えればどうってことはない。ある時間そのことに使わなければならない、という拘束感を乗り越えればむしろ生活に張りができる、というものである。
 
 定時制高校の当時の勤務は午後出勤して5時半から授業が始まり9時に終わる。私は前任の先生の担当していた卓球部を引き継いだので、そのクラブを10時頃までやったり雑用をこなしたりしておおむね10時半ごろには帰宅していた。
 
 予習をしなくてもいい時は、その後で近所の喫茶店に行ってそのころ大流行のインベーダーゲームタイトー)を妻とやった。1回100円だった。今のゲームセンターというようなものはなかった。その他ヘッドオン(セガ)とかデープスキャンとか次々開発されてくるTVゲームをやった。翌日のことがあるから1時前には帰宅して寝ていた。
 
 模擬試験やクラブの引率のない日曜日には行脚と称して妻とパチンコ屋めぐりをした。地元清瀬を総なめした後、東久留米、保谷大泉学園と沿線沿いに進み池袋までうろついた。そっち方面に飽きるとバスで中央線の武蔵小金井まで出てその探索が終わると最後は新宿、神田と足をのばした。
 
 私自身は都立大学時代に友人のつきあいでなんどか行ったことがあるだけで、パチンコは時間の無駄と思っていた。結婚するまで、ヒマができたので玉を弾く、といった生活習慣はなかった。
 
 受験生活の方針が身についていたのか、この時期パチンコに使った金額と取った景品の金額を毎日細かくノートにつけていた。ひと月の勝率は5割を切っていた。たまに勝った時にその記憶が強調されて残り、儲かったような気がするだけで浪費であることは確かであった。私にとっては時間つぶしだったが、それでも妻は楽しそうだった。そういう妻を見ているのは心なごむことだった。 
 
 98.1.23

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 あとがき:「クラブ活動と受験は両立するか」というのが私の高校時代には学習雑誌のテーマになっていた。四当五落(睡眠4時間なら合格5時間眠ると落ちる)とかいう標語があった位で、それほど受験というのは他のことを全部なげうってやらないといけない、と思われていた。だがその合理的理由は少ないと思われる。

 若い時期に何かに集中することに何か意味があるのだろう。受験生がいると家族はそのことを第一に考えて、はれものに触るように丁重にあつかうというのも同じ背景を感じる。イニシエーションと考えていい。私の高校時代と比べて受験の持つ意味も薄められ個別化しているように感じられる。

 推薦入学の導入が受験の一回性を奪った。お受験と言われるように、その時期は小学校入学前から私のように30代まで拡張された。共同体参入の儀式は一回性が重要だから、イニシエーションとしての受験の意味は薄まっている。ドラマが成立しにくい時代である。「新婚生活と受験は両立するか」というのが、私の浪人時代Ⅱ、のテーマだったように思う。(2001.3.17)