私の浪人時代(7)

 私は目的があって大学へ入りたいのではなかった。他にいきようがないから浪人しているのである。工業高校を卒業しているのであるから就職すればよいものをそのまま就職してもやっていけないような気がして、しかたなく受験勉強をしているのであった。
 
 この勝手が許されたのは親に経済的な余裕がなかったからである。住むところと食事だけは持つから後は勝手にしてよい、ということだった。実習助手をしていた1年前は月給の半分は家に入れていたから、自分の勤めは果たした気でいたが予備校に行くようになると肩身が狭かった。将来のビジョンを何も示せないのでいたづらに時間を浪費しているだけかも知れなかった。
 
 土、日には高校の時やっていたビル掃除のアルバイトをまたすることにして自分の使う分はなんとか稼いだが、助手をしていた頃とまったく違って経済的に苦しかった。そして受験勉強はおおむね苦痛であったが、ある程度点が取れるようになって、たまに模擬試験などで自分の名前が出るようなことがあるとうれしかった。
 
 自分より下に有名進学校卒の名前を見たりすると私の虚栄心は刺激された。受験の成績表では工業高校卒といった名前はめったにみなかった。そのことが恥ずかしいことであると同時に秘かな自負でもあった。
 
 浪人2年目の夏はそうして過ぎていくように思えた。が、夏の終わりになって一つの「事件」が起こる。当時ただ一人の友人Aは芸術系を志望していた。私立文系の彼と国立理系の私では授業の時間割が違い、彼が通っている予備校なので私も入学したのだが、あまり会えなかった。夏季講習の選択科目である世界史、古典などでは一緒になった。
 
 夏も終わりの天気の荒れた日だった。台風が近づいていた。私は茗荷谷駅 のそばの喫茶店「白樺」で彼が来るのを待っていた。育ちの悪い私と違い、彼は女性に対して臆さなかった。そのころ彼がつき合っていたのは、中学時代の同窓生で東大の女子学生**恵子であった。
 
 その話を聞いたとき、私は呆然とした。東大の女子学生! 同じ工業高校を卒業した彼にそういうことが起こり、自分にはまったくそういうことが起こらないのは、私にコンプレックスが強いためである。コンプレックスとは劣等感と訳されているが、少し誤訳である。complexそのものに「劣等」の語義はない。複合した、とか混ざり合っている、とかの意味である。
 
 心理的な意味でコンプレックスといった時には、意識的に制御できる部分とそうできない部分が混ざり合って、あることがらに対して、理性的判断と感情が「複合」して混乱することを指す。と後に心理学の本に書いてあったのを読み納得した。わかっているけど自分ではどうすることもできない、のがコンプレックスである。私は*君子にしろG弥生にしろ、強く惹かれる分だけ当たり前の行動がとれなかった。若い女がそばにくるだけで異様に緊張した。 
 
 1996.9.
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 あとがき:事件の舞台となった「白樺」はすでにない。茗荷谷付近もずいぶん変わった。東京教育大学がまだあったころである。今は筑波大学の分校のような感じになっている。放送大学学習センターもここにある。友人Aの家が近くなのでこのあたりはよくうろついたものだ。近くに東大付属の植物園もある。お茶の水女子大学拓殖大学などがあり東京の文教地帯の一つである。私の勤務校もここからそう遠くないところにあるが、印刷関係の小さな会社が多いところでとても茗荷谷のような文教地帯とはいえない。 (2000.10.21)