私の浪人時代(19)

 私は自分がデク人形になったようにカタカタ作業を続けながら、バチがあたったのだ、と思った。あんなはすっぱな女に気を許すからこういう罰を受ける。3階に行ったら麗子さんに許しを乞いこの白けた感覚から逃れるすべを与えてもらわなければならない。
 
 ところが3階の綾小路麗子がいた場所には何もなかった。麗子さんは従業員通路の脇に裸で横たわっていた。片脚が腿の下から落ち腕も肘のところから外れかかっていた。申し訳程度に白い布がかぶせてあった。
 
 マネキンの配置換えが行われているようだった。私は愕然とした。それはもはや単なるマネキン人形だった。私は一挙に1人遊びの恋の対象を失った。まるで必然のようにこういう偶然が起きる。ここには何かある。自分の心の内側の世界と外部の現実世界はどこかつながっているに違いない。
 
 さらに次の週からは掃除分担の配置換えがあり、私はフロアーからはずされ階段を上から下まで担当するように主任に言われた。もうマネキンの近くに寄ることはなかった。
 
 その他のエピソードを列挙しておく。
 
 二十歳の誕生日直前に捨てた黒猫、弥生は9月の寒い夕暮れに1度だけ帰ってきた。福寿荘北向きの窓から当然のように入ってくると、あたりの匂いをすんすんかいだ。そして私の顔を見てにゃあと鳴いた。
 
 弥生は生きていたのだ。ぼてっとした妊婦の体つきがすっきりスマートに痩せて毛並みもつやつやして美人になっていた。私が触れようと手を伸ばすと、ふん、といった感じで入ってきた窓に飛び乗り悠然と出ていった。そしてこんどこそ本当に帰ってこなかった。
 
 浪人1年目の暮れに押し掛けた都立F高校の*君子は和光大学に入学していた。Aからの電話でわかった。大学の生協の食堂で見かけた、というのである。声はかけなかった、という。Aは学園祭に来ないか、と私を誘ったがそういう気分になれなかったので断った。
 
 この「私の浪人時代」は、今はクラス通信に載せているが、始めは親の会の広報誌「やまぶき」に掲載した「私の高校時代」の続編である。3年前にこの「浪人時代」を2月の授業の終わりに配ったことがある。私としてはなかなかよく書けた、と秘かに思っていたのでお別れの挨拶代わり、のつもりであった。
 
 その授業を取っていた生徒の母親がその当時の和光大学生だった。母親の同窓会名簿を調べ、卒業年度から割り出して君子さんの住所をつきとめた。そして私が28年前に訪問した彼女の家を確認し、表札から今も住んでいることを確かめた。
 
 そして、私の所へ来て「先生、彼女に会いたいでしょ。会うのが恥ずかしければ、ビデオレターでも作れば。私が持って行ってあげるよ」といった。  
 
 97.5.28.

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 あとがき:昨年の暮れに、現在の私の住まいに野良猫の親子が出没するようになった。始めに見つけたのは、妻だった。窓際で私に手招きするので、行ってみると生まれたての子猫が3匹じゃれあっていた。「かわいい-かわいいー。もうちょーかわいい」と妻。
 借家ぐらしの転居10回目でなんとか自分の家に住むことになった。だが、妻にアレルギーがあり猫の毛は喘息を誘発する。家猫として飼うわけにいかない。ガラス越しに見守るだけである。
 この親子はその後も私の家の回りでうろうろしている。日溜まりの物置の上とかガス暖房の室外機のあたりが常駐場所である。近所のコンビニに行くときなどに路上で見かけることもある。どこで食料を調達しているのかわからないが、元気いっぱいである。初雪の日はどこかへ行っていたが、つい先ほども窓の外の塀の上を行進していた。
 
  健全な野生、そんなことを考えた。

(2001.1.13)