私の浪人時代(13)

 20歳の誕生日の前に私は妊娠した弥生を捨てることにした。東京に大雪の降った朝であった。弥生をバッグに入れて誰も踏んでいない雪の道を歩いて国電の路線を越え上中里方面に向かった。来たことのない路地を歩いていくと住宅街に出た。見知らぬアパートの前あたりで私は弥生をバッグから出しその重い暖かい体を雪の上に置いた。
 
 弥生はあたりをフンフン嗅いでいたが、哀れな声でみゃあみゃあ鳴き出した。私は空のバッグの取っ手を握ってずんずん歩いた。曲がり角で振り返ると弥生と名付けた黒い猫が雪道の真ん中で途方に暮れて私を見て鳴いていた。角を曲がると後は振り返らずにどんどん歩いて福寿荘まで帰った。
 
 弥生は帰ってこなかった。
 
 もう一つ、言っておきたいことことがある。予備校も終わりの1月頃、私が秘かに思いを寄せていたあのG弥生さんが私に話しかけてきたのである。それは午後の選択の古典の講座だった。講義の始まる前に彼女は私のところへ来て、「あの、今日はどこからですか」と聞いたのである。
 
 私はまったく予想していなかったのであわてふためき、テキストを開いて「ここらあたりかな」と言った。彼女は「先週休んだので、、、」と少し黙って立っていたが、どうも、といったようにおじぎをして自分の席に戻って行った。彼女の声は私が考えたように低い暗い声だった。
 
 私は興奮した。講義が終わってから何か彼女に声をかけるべきだろうか、と考えてはみたが何をいっていいのかまったくおもいつかなかった。終わりのブザーが鳴り、私が彼女を見ていると彼女はこちらを振り返り少し微笑んでおじぎをして帰っていった。それだけだった。
 
 それでも私はうれしかった。彼女は私を悪く思っていないらしいのである。なんだかその時だけそこが陽のあたる大学の教室で私たちは同級生のような気がした。そう日記に書いた記憶がある。この予備校生活でうれしかったのはこのことだけである。それが彼女を見かけた最後だった。次の週、彼女は来なかった。そしてそれが予備校の授業の最終日だった。
 
 都立大学の1次試験の日は私の20歳の誕生日だった。3月3日である。「青春20歳、それが人生の一番美しい季節だなんて誰にでも言わせるもんか」ポールニザン、なんて言葉を引用してはソノ気になって日記に書きつけていた。発表は6日にあった。合格していた。初めて受かったのである。
 
 王子工業高校の担任に報告した。担任のS先生は「とりあえず良かったな」と電話口でいった。しかし、2次試験が2日後に控えていた。これに合格しなければ何もならない。試験が終わって自己採点してみるとなんとかいけそうだった。最終の発表は確か18日頃だったと思う。それまでは落ち着かなかった。落ちたら、2期校の埼玉大学を受験しなければならない。そうは思っても勉強に身が入らなかった。そして発表の日がやってきた。
 
 96.12.25

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 あとがき:これを読んだ同僚から責められた。お腹の大きい猫を捨てるなんてひどい、というわけだ。しばらく話をしてくれなかった。クラスの女生徒も冷たい視線で、私を犯罪者のように見ていた。おいおい、ちょっと待ってくれ。そりゃ、可哀想だけどさ、もう30年も前の話だよ。それに仕方なかったんだ。間借人ってのはつらいもんなんだ。釘一つ打てないしさ。そう抗弁したかったが、黙っていた。そのうちいつの間にか元のようになった。やれやれである。でもこういう事って相手は意外としぶとく憶えていて何かの時に噴出してくる気がする。この猫については後日談がある。それは2月ほど先の自伝シリーズで明らかになります。( 2000.12.2)