私の浪人時代(4)

 上野で降りたようだった、というのはきちんと彼女だと確認できなかったからで、私はなかばやけになって上野駅の人混みの中を動物園方向の改札から出てずんずん歩いて行った。暑かった。もう自分が何をやっているんだかわからなくなっていた。寂しい方へ寂しい方へと歩いていくと、墓地に出た。谷中の墓地である。夏の午後で奇妙に静かだった。私は木立の中、墓石の間で途方にくれていた。結局尾行は失敗したのだ。彼女を見失うとともに私は自分を失った。
 
 見知らぬ道をやみくもに歩いていくと日暮里へ出た。そこから疲れきって福寿荘に帰ると、北向きの部屋の窓の外に黒い猫がいた。中へ入れるとくんくんとあたりのにおいを嗅ぎ、部屋の隅に当然のように座り込んでしまった。福寿荘では動物を飼う事を認めていなかった。ばれるとまずいと思いながら追い出す事は出来なかった。私はこの猫を弥生となずけてひそかに飼うことにした。予備校では相変わらず、彼女のことは気になっていたがもう彼女に対して何か現実的に行うことはあきらめていた。
 
 勉強のことを記しておく。工業高校時代は辞書もなく英語は週3時間であった。そこからいきなり受験したのだから出きるはずはなかった。予備校の英語教師は斎藤という蟹のような体躯の初老の男でいつもサスペンダーをしていた。まったくのカタカナ発音でテキストを読み、斎藤メソッド3読法といって、英文を読みながらお経のような呪文を唱えた。アイがエスでしゅごアムが2でホがボーイとI am a boy.を読んだ。シイがエスでしゅごメイスが5でモがミイホがサッドはShe makes me sad.のことである。彼が独自に開発した斎藤メソッドとは動詞の5文型をいれながら英文を読むというものであった。
 
 なんだかさっぱりわからなかったがこの怪しい呪文はいまだに私の頭の中に鳴り響いている。ただ彼が編集したという、365の単文は役に立った。1日ひとつ記憶せよというものである。単文と訳がついていてその中に熟語や重要な動詞の語法はほとんど入っていた。少し大きめの単語カードに英文、訳と裏表に書いて憶えた。
 
 また三省堂で買ったグラマー(文法)の教科書には各章の冒頭に重要な単文が4つほど出ていた。それも同じ方法で憶えていった。100ほど憶えたあたりから、模擬試験の穴埋めで点が取れるようになった。要するに憶えればいいのであった。英作文もこの単文を少し変えて答えれば良いのであった。
 
 英作文では自分で文章を考えるのではなく、憶えた英文を問題の日本文に合わせて使う。辞書を引くときも和英事典を引くのでなく英和事典で関係のありそうな項目を引いてその中の例文を引用して英作文に答えるのである。そういうやり方をすると、なんとか点は取れるが、時間がかかった。
 
 1996.7.1. 
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 あとがき:当時ストーカーという言葉は使われていなかった。フーテンの寅なら「しょうがねえなあ、色気づきやがって」というところだろう。フーテンの寅はごくたまに見るくらいである。初めて「スト-カ-」という言葉を知ったのは、同名の映画だった。ソ連タルコフスキー監督作品(1979)、謎のゾーンを追求する謎の映画で、マニア好みのカルト作品といっていい。ここでは、探求者といった意味にとれる。寅さんも「ストーカー」もそれなりに好きな私は相変わらずふらふらしている。 ( 2000.9.30)