私の浪人時代(5)

 それが正しいのかどうかわからなかった。まったく能率の悪いやり方かも知れなかった。きっと進学校のやつらはもっと正当なやり方をしていて、効率的に勉強しているように思えた。不安だった。英文解釈も始めはまったくわからなかった。
 

 初めて買った辞書は研究社の英和中事典でZ会の紹介記事で知った。はがすようにして開いたページのインクの匂いを良くおぼえている。引き方がわからなかった。たとえば of と言う単語を調べると、意味がたくさん載っていてどれを使えば良いかわからない。それでもノートに of と書き、発音記号を写し(いまだに読めない) nとかaとかの記号を記し、英文の前後にある単語から類推して近い意味の言葉を2つか3つ書いて、辞書に黄色いマーカーで印をつけた。単純作業であった。10行ほどの英文でも知らない単語はたくさんあり、2時間ほどかかった。そして調べた単語の意味をながめながら、なんとか日本語で意味のある文をでっちあげるのである。
 

 通信添削の課題の英文や自分で買ってきた教科書の文をそうやってひとつひとつ訳していった。添削の場合は解答が返ってくるからそれをみる。教科書の場合は教師用の指導書と照合した。
 
 やることをきめて折り畳みの小さなテーブルにへばりついて作業した。勉強するのは嫌だった。しかし他にすることは思いつかなかった。前述したように人間関係に臆病になっていたし、自信もなかった。もうなかば社会から見捨てられているように思っていたから、どこか大学に入る以外に自分の存在証明はない、とまで思い込んでいた。そして成績が悪いとその根拠も危うく感じられるのである。楽しいこともなく効果も定かでない苦役であった。
 
 今考えれば、他にいくらでもやりようはあったように思える。それは離れてみて思うことで目の前の課題を一つ一つこなす以外に日常生活というものはないのである。「人間はしたいことするものではない。できることをするものである」とはやはり受験勉強で覚えた芥川龍之介の言葉であるが、もう一度やりなおしても同じようなことをするしかないと思われる。女の子ともつき合わず海山にも遊びにいかなかった。それはその後の人生でもおおむね同じことであった。
 
 1年ほどたつと辞書のどのページを開いても黄色いマーカーがついているようになった。ある時一挙に意味がわかるようになった。これは奇妙な感じだった。英文を読みながら意味がおぼろげに浮かんできて、先にどんな単語があるか予想できるようになっていた。英語で表現された塊と日本語で表現された塊があってその間に連絡通路をつけるのが英訳というものらしい。だから英語で表現された塊がある程度大きくならないと日本語との通路ができなかったのだろう。
 
 1996.7.16

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 あとがき:タクローという言葉があった。自宅浪人の略である。このワープロでは自他苦労人とでた。今なら「引きこもり」というのかもしれない。大学進学準備の一形態で、自宅で受験勉強して過ごすことだ。そういう言葉は最近使わないみたいで、世の中変わったもんだと思う。この頃はどこかに所属していないといけないみたいである。予備校に通っていても実質は自宅浪人のようなものだった。そのタクローで私は英語を学んだ。英語を学んだというより、英文和訳で作文の練習をした、といった方がいいかも知れない。意識的に日本語を書く練習になった。そのおかげでこの自伝シリーズもできたといえる。 (2000.10.7)