私の浪人時代(11)

 個人的な体験は鳥(バード)と名付けられた予備校教師に障害児が産まれる話である。私は帰宅して3時間ほどで読み切った。ただちに彼女に手紙を書き始め、翌日までにB5レポート用紙42枚の作品ができあがった。本の感想を書くつもりが自分の孤独な生活をぐちゃぐちゃと書きつのったものだった。読み返すと出せないと思い目をつぶって崖から飛び降りるように暗記した住所に送った。
 
 私は大作の「ラブレター」を書いたつもりでいたが、困窮と哀願のいりまじったわけのわからぬ大部ななぐりがきを見知らぬ受験生からもらって彼女は迷惑しただけだったと思う。何か彼女から反応がないかと期待すると同時にもし返事が来たらどうしたらいいかわからないと例によって混乱していた。
 
 当然、返事は来なかった。
 
 この前、Aと神楽坂の「憂陀」で会い、この28年前の事件を確認した。Aによると、中学が同窓の彼女(恵子さん)と出会ったのは池袋のプラットフォームであった。Aが電車を待っていると向かい側のホームにヘルメット姿の一群がいてその中に彼女がいたというのである。当時ベトナム戦争に荷担していたアメリカ兵が在駐する米軍王子キャンプにデモをしかける**派の中に彼女はいたのである。Aはその後彼女に電話をかけつきあいが始まったという。
 
 この事件に典型的な関係がその後しばらく続くことになる。すなわちAのつきあっている女性に私がすぐさまのぼせ上がり手紙を出したりして、3人、もしくは4人で集団「交際」になる、といったたぐいの関係である。
 
 Aはそれから20年ほどしてこの彼女と同じ名前の14歳年下の人と結婚することになった。披露宴の司会は私がしきった。現在Aはすでに2児の父である。
 
 模擬試験の成績でまずまずの結果をだせるようになっていた。東大は無理だったが教育大ならいけそうだった。私はノートに東京教育大学理学部数学科と呪文のように何行も何行も書きしるし、それを前に腕組みしてニヤニヤしたりしていた。ところが翌1969年になると東大と教育大の入試が中止になった。
 
 学生がバリケード封鎖をしていて大学の正常な活動は停止していた。明治より始まった日本の教育史上空前絶後の出来事である。1969.1.18、19は東大に機動隊が導入されバリケードが解除された日である。バリケードは解除されても大学の機能が正常化されるには時間がかかるということだった。それをTVで見ながら私は志望大学を変えることにした。経済状況からいって私立大学は受験できない。当時国公立で一番学費の安い都立大学(授業料は月額1000円であった)と2期校の埼玉大学に願書を出した。
 
 96.11.19

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 あとがき:浪人時代に大江健三郎は良く読んだ。全作品6巻即購入。出版されなかった「政治少年死す」は大学の図書館で文学界のバックナンバーをさがして読んだ。婦人公論に連載された「夜よ、ゆるやかに歩め」という中間小説も読んだ。そしてそういう「文学」を読むことは恥ずかしいことなので、気づかれないようにしていた。( 2000.11.18)