私の浪人時代(18)

 この時期になると私の恋心は人に向かうことなく、京王デパートのマネキンが対象になった。3階エレベーター前で和服を着て酷薄そうにほほえんでいるのは「綾小路麗子」であった。彼女のそばを掃く時はいつも心の中で挨拶をしていた。彼女はまったく私を無視したり、時にはやさしく返事を返したりした。
 
 自分の一人遊びだ、と思ってみるが、彼女のそばを通るときに私が緊張するのは事実だった。当時京王デパートには2種類のマネキンがあった。ホンモノとニセモノと私が勝手に判断した。どこが違うかというと、眼が違う。ホンモノは眼がガラスで出来ていて生きているような輝きがあった。ニセモノは単に黒く書いてあるだけで眼が死んでいた。綾小路麗子は勿論ホンモノで、和服の似合う26歳の美人である。
 
 6階にもう1人ホンモノがいた。「村瀬明美」と私が名ずけた彼女はノースリーブでミニスカートを履き24歳のBG(まだOLという略語はなかった。後にこの呼称はbed girlを連想させる、ということで使われなくなった)で惜しげもなくその美しい肌色の脚を晒していた。
 
 明美のそばを掃除するときにも私は緊張した。それは彼女が私を誘惑するからである。自慢の脚を私だけに触らせてあげる、というのであった。掃き掃除は1人で上から降りてくる。6階でその誘惑に耐え3階で綾小路麗子のそばを通るときは自分はそんなふしだらな人間ではない、と彼女に弁解した。
 
 すると次の日に明美は、そんな無理をしなくていい、男の子だったら当然でしょ、と私の気持ちを見透かしたようなことをいうのである。1人で誰とも話さず作業をしていると、それが自分が想像していることなのかどうかわからなくなってくる。実際私は明美の女の声を聞いたように思った。
 
 その誘いに乗ろう、と決心した私は埃よけの布をかぶせてあるレジの脇のセロテープを短くちぎると右の手の甲に張りつけ犯行に及んだ。セロテープはもし見つかった際にはそれが脚についていたから剥がそうとした、という言い訳に使うつもりだった。自分の頭の中では用意周到なつもりでいたが、状況そのものが怪しいのだから身の潔白を証明する何の助けにもならない。
 
 明美のそばに近づくと緊張が高まった。私は息を詰めて彼女に近づきその左脚の膝の少し上を右の人差し指と中指の腹で軽く触れた。私の右肩のすぐ前に彼女の胸があった。目がくらむ思いだった。だが当然のことながら指に触れたのは暖かい女の脚ではなく妙につるりとした合成樹脂の触感であった。
 
 それが私の一人芝居に幕を下ろした。私は詰めていた息を吐き出すと、また作業に戻った。少し離れて見るとそれは単なるマネキンだった。何が明美だよ、ばーか、と自分に毒づいて見たが侘びしい想いがつのるだけで、あたりが白々と見える離人感がより強まるばかりであった。           
 
 97.5.13. 
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 あとがき:実は当時マネキンで一番の美人は、日本橋三越2階呉服売り場にいた。エレベーターが2階についたそのすぐ前に立って艶然と微笑んでいた。私はほとんど銀座方面に行かなかったので、めったに会えなかったが、やはり新宿と銀座は違う、と思った。マネキンの表情も時代とともに変わるようだ。最近ではああいう美人に会ったことがない。あるいは私の見え方が変わったせいかもしれない。変わりに若い人の中にマネキン顔を見るような感じがする。(2001.1.6)